千葉県立 青葉の森公園近くの小さなヨガ教室

ギーターヨーガ

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【ギーター】第3章18番目の詩

नैव तस्य कृतेनार्थो नाकृतेनेह कश्चन ।

न चास्य सर्वभूतेषु कश्चिदर्थव्यपाश्रयः ॥३.१८॥

naiva tasya kṛtenārtho nākṛteneha kaścana |

na cāsya sarvabhūteṣu kaścidarthavyapāśrayaḥ ||3.18||

そのような人(自分自身に満たされている人)にとっては、この世界において、行いをすることや、行いをしないことによってかなう目的がまったくありません。また、そのような人は、どんなものにも依存してはいません。
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「その人の考えが浄化されているとどうやって分かるのか?」という問いへの答えはシンプルです。

「自己の知識が確立[ātma-jñāna-niṣṭha]しているから」です。

鏡が汚れていれば姿が映らないように、知識が鮮明であることは、器である考えがすでに清らかであることを暗に示しています。

 通常、行いには「外側の結果」か「内側の浄化」という目的があります。

しかし、すでに自分自身を「全体[pūrṇa]」だと知っている人には、付け加えるべき幸せも、除去すべき汚れもありません。

もし天国や特定の状況に「自分を幸せにする価値(役立つもの)」を認めるなら、それは「今の自分は不完全だ」と言っているのと同じです。

全宇宙が自分自身であると知る賢者にとって、もはや「どこか別の場所で何かを得る」という発想自体が成り立ちません。

行い無しに結果があり得るか?

ヴェーダは「毎日すべき儀式を怠るとパーパを得る」と言いますが、シャンカラは、ナイシュカルミャである人にとっては、どのような行いも(あるいは不作為も)、彼を縛るような『結果』を二度と生むことはない」と論理的に一蹴します。

「すべきことをしないと罪になる」と言われる真の理由は、人間は「何もしない」という状態に耐えられないからです。

適切なカルマ(義務)を放棄すれば、すぐに不適切なこと(不適切な思考や怠惰)が入り込み、ヴィヴェーカが失われます。

こうした「怠慢が不適切な行動を招く」という問題は、無知な人にのみ当てはまります。

すでに満たされている賢者にとっては、外側のルール(ああしろ、こうしろ)は意味をなしません。

賢者はダルマやアダルマの二元性を超えています。

「賢者はダルマ・アダルマを超えているから、殺人をしても罪にならないのか?」という極端な問いに対しても「賢者には殺人を犯す理由がない」と答えます。

殺人は、何かを奪いたい、あるいは不快なものを排除したいという「不完全さ」から生じます。

しかし、自分を「全体[pūrṇa]」と知る賢者には、何も奪う必要も、何も排除する必要もありません。

ですから「ダルマを超えているが、ダルマに沿った生き方になる」のが賢者の姿です。

行い手の観念と知識は共存しない

殺意や貪欲さは、「今のままの自分では不十分である」という欠乏感から生じます。

自分を「全体[pūrṇa]」と知る賢者には、何かを奪ったり排除したりする動機がそもそも存在しません。

私たちは通常、デーヴァターに祈り、健康、お金、天国、知識、考えの浄化を得ようとします。

これを「目的への依存[artha-vyapāśraya]」と言います。

しかし、すでに「すべて」を得た賢者には、頼るべき対象も、祈るべき目的もありません。

賢者にとって、イーシュワラは自分自身の外側にいる「与える人」ではなく、自分自身の本質そのものです。

イーシュワラがなすべきことは、その人に知識を与えることで、すでに「完了」しています。

この世界に存在するいかなる物も人も、賢者を「より良く」することはできません。

なぜなら、彼らはすでに「最高(全体)」だからです。

また、誰も彼らの満足を奪うこともできません。