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ギーターヨーガ

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【ギーター】第3章20番目の詩

कर्मणैव हि संसिद्धिमास्थिता जनकादयः ।

karmaṇaiva hi saṃsiddhimāsthitā janakādayaḥ |

लोकसङ्ग्रहमेवापि सम्पश्यन्कर्तुमर्हसि ॥३.२०॥

lokasaṅgrahamevāpi sampaśyankartumarhasi ||3.20||

実際、行いによってのみ、ジャナカ王や他の人は自由を得ました。また、適切でない生き方に陥ってしまうことから人々を守るという、望ましい状況をだけを見て、あなたは、行いをしなければなりません。

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自分を「全体」と知るニャーニーには、行い手観念がないため、なすべき義務はありません[kartavyam nāsti]。

カルマの束縛や、ヴェーダの申し付けからも自由です。

一方、ラーガ・ドヴェーシャに突き動かされるアヴィヴェーキーは、自らの秩序を守るためにダルマに従ったカルマを行う必要がありますが、それは依然として束縛の原因となります。

これらに対し、自由を強く望む人[mumukṣu]は、同じ行いをするにしてもラーガ・ドヴェーシャを満たすためではなく、考えの浄化[antaḥkaraṇa-śuddhi]のためにカルマ・ヨーガを選びます。

彼らは、置かれた状況で自身の役割を果たしつつ、その結果を神からの恩恵[prasādaとして受け入れることで、結果に対する執着から考えを解放していきます。

この正しい態度によって考えが浄化され、その清らかな土壌があって初めて、知識が定着し、モークシャがあります。

シュルティは、ジャナカ王やアシュヴァパティの名を挙げました。

彼らは、多忙な役割を熟し、家庭を持つ身でありながら、生きることによって自由[saṃsiddhiḥを得ました。

賢者は行いを放棄する必要がない

知識がモークシャを「もたらす」というのは、「無いものを新しく作る」という意味ではありません。

もしモークシャが行いの結果として「作られる」ものだとしたら、作られたものはいつか必ず壊れます。

しかし、モークシャは永遠です。

永遠であるためには、それは「最初からそこにあったもの」でなければなりません。

知識とは常に「すでにある事実」です。

土のポットを「これは真鍮だ」と思うのは誤解であり、知識ではありません。

知識はポットの本質を変えるのではなく、ありのままを理解させるだけです。

自分自身は、今この瞬間もすでに自由[mukta]です。

モークシャは、どこかに行って手に入れるものではなく、「自分は最初から自由であった」という事実を認識することです。

ジャナカ王が証明したように、カルマ自体は知識を妨げません。

妨げになるのは、行いがラーガ・ドヴェーシャを満たすためだけに使われる時だけです。

カルマ・ヨーガは、ラーガ・ドヴェーシャを中和し、知識を受け取るための「考えの準備」として機能します。

知識を得た後行いをするのはなぜか? 

賢者が知識を得た後も活動を続けるのは、プラーラブダ・カルマ[prārabdha-karma] のためです。

それは、私たちが今この瞬間に、この体とこの環境を持って生まれてきた原因となる「過去の行いの結果」です。

放たれた矢が的に当たるまで止まらないように、得られた知識があっても、この肉体が生じている原因[prārabdha]が尽きるまでは、人生というドラマは続きます。

賢者にとって、人生は「努力して何かを成し遂げる場所」ではなく、プラーラブダに従って「ただ起こることが起こる場所」です。

教えることがプラーラブダであればシャンカラのように教え、ジャナカ王のように統治することがプラーラブダにあれば、鳴り止まない電話に対応するように多忙な職務をこなします。

無知な人の場合、プラーラブダと自由意思は複雑に絡み合っています。

人は自由意思を使って運命を改善しようと足掻きますが、どこまでが運命でどこからが意思なのかを判別することはできません。

しかし、賢者の場合は異なります。

「私は行い手ではない」という知識が確立しているため、もはや「自分の意志で運命を変えよう」という動機そのものが消滅しています。

その時、自由意思という要因は消え(no choice)、純粋にプラーラブダだけが人生の舵を取ることになります。

アルジュナはリーダーなのです

リーダーをその動機によって3つに分類しています。

1.日和見主義者(Opportunist): 自己満足や金銭、権力への欲求が動機です。自分の利益のために状況を利用するリーダーであり、社会の多くのリーダーがこのタイプに属します。

2.理想主義者(Idealist): 日和見主義者よりもさらに「危険」なタイプです。彼らは「自分こそが正解を知っている」「自分だけが世界を救える」という狂信的な信念(イデオロギー)に囚われています。ヒトラーの例にあるように、特定の思想のために自他を犠牲にすることを厭わず、歴史上の大きな戦争や破壊の多くは、こうした理想主義者によって引き起こされてきました。

3.真のリーダー(Natural Leader): 自分から導こうとするのではなく、その生き方の誠実さゆえに、結果として「人々が従ってしまう」リーダーです。彼らは自分の考えに固執せず、真実に従って柔軟に生き、自分がリーダーであるという自覚さえ持たないことがあります。

アルジュナは、この3番目のタイプのリーダーでした。

彼が望むかどうかにかかわらず、当時彼は「英雄」であり、弓術において無敵であり、王族としての品格も備えた、誰もが憧れるヒーローでしたから、あらゆる人々の注目と尊敬を集めていました。

ここで重要なのは、「人はリーダーがすることを真似る」という心理です。

もしアルジュナが「自分は賢者だから」あるいは「戦うのは嫌だから」という理由で戦場を去り、サンニャーシーになったとしたら、その真の意図を理解できない大衆は、「義務から逃げてもいいのだ」という誤った手本を模倣してしまいます。

その結果、社会の秩序は崩壊してしまいます。

行いは知識に対立しない

「なぜ世界を守らねばならないのか?」という問いに対し、ここでの回答はとても現実的です。

それは使命感というより、むしろ「今、そこにあなたがいるという事実」に基づいています。

アルジュナがパーンドゥの息子として生まれ、王族の戦士[kṣatriya]として戦場に立っていることは、彼が自分で選んだことでなく、 プラーラブダ・カルマ によるものです。

「あなたがそこにいなければ、他の誰かがその役割を担わなければならなかった」という言葉は、宇宙の秩序の中で、各々が配役を与えられていることを示唆しています。

クリシュナは、賢者であってもムムクシュであっても、この「与えられた状況」でカルマをすることに何の矛盾もないと言います。

ニャーニーは、「私は行い手ではない」という知識があるため、戦っていても、そのカルマが知識を損なうことはありません。

ムムクシュは、単に行いをするだけでは束縛されますが、アンタッカラナシュッディのために行いをするのであれば、行いに束縛されたりしません。

クリシュナは、アルジュナが クシャットリアであるという事実を、モークシャを得るための最大の「修行の場」として利用するように促しました。

逃げ出して静かに座っていることではなく、荒れ狂う戦場の中で、クシャットリアとしての役割を果たすことが、アルジュナにのみ許された、最も速く、かつ確実なアンタッカラナシュッディの道でした。