
उत्सीदेयुरिमे लोका न कुर्यां कर्म चेदहम् ।
utsīdeyurime lokā na kuryāṃ karma cedaham |
सङ्करस्य च कर्ता स्याम् उपहन्यामिमाः प्रजाः ॥३.२४॥
saṅkarasya ca kartā syām upahanyāmimāḥ prajāḥ ||3.24||
もし、私が行いをしなけば、これらの人々は、滅びてしまうでしょう。私は、(社会の)混乱の作者となるでしょうし、これらの生き物たちを破壊してしまうでしょう。
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人間を「破壊」から守るのは、物事をあるがままに見る識別です。
この力が失われた時、人は主観性の渦に飲み込まれ、正気を失います。
正気の人(客観性が優位)は、 物事をあるがままに理解しようとする度合いが高い人です。
狂気の人(主観性が優位)は、 自分の恐れや欲望を世界に投影し、事実ではないものを真実だと思い込む度合いが高い人です。
しかし、この違いは主観的投影の量の差に過ぎず、その境界線は非常に曖昧です。
もし、ラーガ・ドヴェーシャを持ちながら、識別のない人が「行い」を止めてしまったら、内側の主観的な妄想が膨れ上がり、精神的な崩壊を招きます。
ここで破壊とは、外部との客観的な繋がりを失い、自分の主観(投影)の中に閉じ込められてしまうことですから、世界との接点を保ち、正気を維持するプロセスを適切に行います。
たとえ「普通」と言われる人であっても、「お金があって安心を」という過度な期待や、他者に対し、自分の恐れを投影して見てしまいます。
すなわち、ありのままを見ていないのです。
◎他の人へのお手本として行いをする事
ここでの ローカ[loka] は、物理的な「世界」ではなく、そこに住む 「人々」 です。
もしイーシュワラが宇宙の維持を止めて世界が消滅するなら、それは救済に近いかもしれません。
しかし、ここでの問題は、世界が消えることではなく、「生きている人々が、正気を失ってしまうこと」にあります。
クリシュナが警告する「破壊」とは、肉体の死ではなく、識別能力の喪失です。
ギーター第2章63節で述べられた通り、知性が破壊された時、人は人間としての本質を失い、破滅[pra-ṇaśyati]します。
何が真実で、何がそうでないかを見極める知性の破壊[buddhi-nāśa]があります。
行うべき義務を放棄し、タマスに陥ると、人間から理性が失われます。
アルジュナは「戦うことが社会の混乱を招く」と恐れましたが、クリシュナは逆の視点を示しました。
指導者が義務を放棄し、人々がそれに倣って「何もしない」という誤った道(タマス)へ進んでしまいます。
人々は常に名誉ある人の振る舞いを模範にします。
だからこそ、クリシュナは自ら カルマを完璧に遂行し、社会が「正気(客観性)」を保てるよう導いているのです。
