
सक्ताः कर्मण्यविद्वांसो यथा कुर्वन्ति भारत ।
saktāḥ karmaṇyavidvāṃso yathā kurvanti bhārata |
कुर्याद् विद्वान् तथाऽसक्तश्चिकीर्षुर्लोकसङ्ग्रहम् ॥३.२५॥
kuryād vidvān tathā'saktaścikīrṣurlokasaṅgraham ||3.25||
ああ、バーラタよ。ちょうど、行いの結果に執着する知識を得ていない者たちが行いをするように、人々を守りたい願望を持ち執着の無い賢者は、行いをするでしょう。
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クリシュナがアルジュナを「バーラタ[bhārata]」と呼んだことには、意図があります。
この名は単にバラタ族の末裔を指すだけでなく、「真実の知識の中に喜ぶ人」という意味が込められています。
(※ブランマンの知識[bhā]+喜んでいる、没頭している[rata])
たとえアルジュナが「私は全てある」と知る賢者の境地にいたとしても、クリシュナは彼に行いを促します。
なぜなら、一般の人々は「なすべき義務を放棄した姿」だけをお手本として真似てしまうからです。
ここでクリシュナは、知識のない「無知な人」と「賢者」の振る舞いを比較し、驚くべき提案をします。
通常、無知な人は、行いの結果に強い執着を持って行動します。
「この行いによって、必ずこの結果を得たい」という強いラーガが、彼らを突き動かすエネルギーになります。
しかし、その情熱には常に「結果への不安や心配」が付きまとっています。
一方で、賢者[vidvān]は、結果に対する執着を一切持ちません。
彼らは、結果を神からのプラサーダとして受け取る知性を備えています。
クリシュナの教えの核心は、「賢者は、無知な人が欲望のために燃やす情熱と同じくらいの熱量を持って、執着なしに行いなさい」**という点にあります。
無知な人は、自分の利益(主観的な欲望)のために、必死に行動しますが、賢者は、社会の秩序を守り、人々を破壊から救う(客観的な義務)ために、誰よりも熱心に行動するのです。
もし賢者が「私は悟っているから何もしない」というタマスな態度をとれば、社会はタマスに支配され、人々の識別力は失われてしまいます。
だからこそ、知識を喜ぶ者[bhārata]であるアルジュナは、内面では「自分は一切の行いから自由なアートマーである」と認識し、外面では誰よりも情熱的に、目の前の戦いという義務に没頭すべきなのです。
◎行いの背景にある考え方
賢者が行う際、彼らもまた特定の「目的」を持って行動します。
「結果を期待せずに行動する」とは、決して「無計画に、目的なく動く」ということではありません。
どんな行いも、目的があって初めて意味を成すからです。
賢者は、カルマと結果の関係を、極めて客観的に理解しています。
自分ができることは、 行いを計画し、最大限の努力を尽くすことで、その行いがどのような結果として実るかは神の采配です。
結果は、自分自身の努力以外に、数え切れないほどの要因が複雑に絡み合っています。
賢者は「結果は自分の手の内にはない」という事実を理解しているので、結果を心配して心を痛めることがありません。
無知な人が「自分の欲望を満たすため(主観)」に行うのに対し、賢者は「それがなされるべきこと[kartavya]だから」という理由で行います。
この「義務感」は、「結果がどうあれ、今この瞬間、この行いに最善を尽くすこと自体が正しい道だ」という情熱です。
賢者にとって、結果が期待通りであろうとなかろうと、それは等しく「その時、その状況が生み出した最善の結果」として届けられます。
無知な人は、 結果に一喜一憂し、期待が外れれば気力がくじけ、心配によって心がすり減ります。
ヴィッドヴァーンは、自分自身が満足であることを知っていますから、 結果を平静に[samatva]受け取ります。
◎賢者は世界に恵みをもたらすために行いをする
自分自身がすべてであると知る賢者にとって、この世界で新しく成し遂げるべきことや、手に入れるべきものは何一つありません。
それにもかかわらず、彼らが情熱を持って行動し続けるのはなぜでしょうか?
何かを行いたいという願いを持つ人を、サンスクリット語でチキールシュ[cikīrṣu]と呼びます。
賢者の願いは、自分の利益ではなく、「人々を、ダルマへと繋ぎ止めること[lokasaṃgraha]」です。
もし賢者が行いを放棄すれば、人々は「何もしなくていいのだ」と誤解し、ブッディを失い、破壊的な道へと転落してしまいます。
賢者は、人々がタマスに陥ることを防ぐために、あえて行動の輪の中に身を置くのです。
クリシュナは、アルジュナの戦車の御者を引き受けました。
御者は武器を持たず、真っ先に敵の矢にさらされる最も危険なポジションです。
クリシュナは自分の命を預けてまで、戦車を走らせました。
それは彼自身の利害のためではなく、ダルマを守るためでした。
「ダルマを守る」という言葉は、抽象的な概念を守ることではありません。
真の意味は、ダルマに従って生きる人々[dharmī]を守ることにあります。
人々が正気を保ち、正しく生きていける秩序を維持することこそが、賢者が行動する唯一の目的です。
賢者は、自分自身に成し遂げるべきことは何もないと知りながら、人々が神の采配を信頼し、謙虚さを持って正しく生きていけるよう、神に手を合わせ、祈りのお手本をも示します。
その祈りの姿こそが、人々を正しい道へと引き上げる恩寵[anugraha]となり、人々の心を静め、知性を守る力となります。
