न बुद्धिभेदं जनयेद् अज्ञानां कर्मसङ्गिनाम् ।
na buddhibhedaṃ janayed ajñānāṃ karmasaṅginām |
जोषयेत् सर्वकर्माणि विद्वान् युक्तः समाचरन् ॥३.२६॥
joṣayet sarvakarmāṇi vidvān yuktaḥ samācaran ||3.26||
知識にしっかりと留まる賢者は、行いの結果に執着する無知な人の理解に妨げを作り出すべきではありません
自分自身で全ての行いを上手に行い(無知な人が全ての行いをするよう)励ますべきです
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この詩のヴィドヴァーンは、無知な人[ア・ニャーニー]の理解を妨げないように言われた賢者のことです。
ユクタハは、ヴィッドヴァーンを意味する他の言葉が、ユクタハで知識を授かった人[ニャーネーナ ユクタハ]を意味します。
その様な人は、成し遂げたいことや、失いたくないものなどありませんが、他者が従う為のお手本を示します。
ヴィッドヴァーンは、その人自身でお寺ですから、お寺に行く必要はありませんが、お寺を通り過ぎずに入り祈りを捧げ、更には神を讃える詩を作りさえするかもしれません。
ヴィッドヴァーンは、成されねばならないカルマ全てを行います。
シャンカラは、多くのお寺に奉献し、神を讃える詩の数々を作ってきました。
ヴィッドヴァーンが、グラハスタなら、アーシュラマで申しつけられた行いが追及されましたし、サンニャーシーなら、その生き方が追及されました。
この詩の中でクリシュナはグラハスタである賢者に教えました。
家庭人[グラハスタ]は、社会や、両親、家族、デーヴァターに対する義務など、異なったレヴェルのカルマがあります。
カルマが道具となるので、他者にお手本を示すようにと、この詩でクリシュナはグラハスタである賢者に教えました。
カルマとダルマに関しては、それが成される様にお手本を示すことで教えることができます。
言葉で教えることもできますが、カルマとダルマは、お手本を示すことで、教えている人の言葉が何らかの重みを持つので、良い人生を生きている人の言葉は、重みがあるのです。
ダルマの生き方とは違い、知識を扱う教え[アートマ・ニャーナ]は、お手本では示せず、それは言葉によって教えられなければなりません。
言葉がプラマーナですから、それは言葉[シャブダ]によって教えられねばなりません。
どんな教えも、その人が話している事を理解しているなら、言葉が重みを持ち、それは真実に聞こえ、その言葉が話される時、その意味を私達は見ますが、それでも言葉を使う教えは、お手本を示すことでの教えではありません。
この様に2つのタイプの教えがあります。
その人がブランマンであることを誰かに話す時、どんなお手本を示すことが出来ません。
あなたがブランマンであると話す時、その人はいつも瞑想しているとか、ゆっくり話すとか、長い髭を生やしているなどという、どんなお手本も用いられません。
クリシュナが賢者と無知な人を比べて、片方にとっての夜は、もう一方にとっての昼であると言う時、それは、お手本を示すことではないのです。
現代の家庭では、お父さんが忙しく働き、朝早く家を出るので子供達に会わず、夜遅くに家に戻るので子供たちは眠っています。
お父さんと子供が決して出会わないように、無知な人が眠る時、賢者は起きていて、無知人が起きている時、賢者は眠っているとは、単にその2つは出会うことが無いという意味です。
お手本を示す事が出来るのは、ダルマ・シャーストラに関してだけです。
お手本を示しアートマ・ニャーナを教えると言う人もいますから、この点は理解する必要があります。
適切にカルマを行う賢者がお手本を示し、人々はその賢者に従い様々なカルマをします。