प्रकृतेः क्रियमाणानि गुणैः कर्माणि सर्वशः ।
prakṛteḥ kriyamāṇāni guṇaiḥ karmāṇi sarvaśaḥ |
अहङ्कारविमूढात्मा कर्ताऽहमिति मन्यते ॥३.२७॥
ahaṅkāravimūḍhātmā kartā'hamiti manyate ||3.27||
体、考え、感覚器官、プラクルティのグナによって行いが様々な方法で為されます
私という観念によって幻惑され、人は「私は行い手」と考えます
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プラクルティは、全ての物が発生している原因、潜在している源です。
個人は2つの側面があります。
①自分自身[アートマー]、意識[チャイタンニャ]を意味するプルシャ
②アヴィッデャーやマーヤーと呼ばれるプラクルティ
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◉無知[アヴィッデャー]
どれ程の無知が大きな力で、どの様に働いているのかに気づけないのが無知
◉マーヤーの2つの側面
1.リアリティを覆い隠す働き[アーヴァラナ・シャクティ]
2.名前や形を現す働き[ヴィクシェーパ・シャクティ]
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体、考え、感覚器官は、プラクルティから生まれた創造物で、変化する性質[ヴィカーラ]で、完全にプルシャに頼ってあるものです。
プルシャが唯一のもの[ヴァストゥ]で、理解されねばならないものです。
原因[プラクルティ]から生まれる物は、変化する性質ですから、プラクルティ・ ヴィカーラとかプラクルティ・グナと言われます。
グナという言葉は様々な意味がありますから、文脈の中で、適切な意味が理解します。
グナという言葉
●「黄色い花」の黄色の様な、単純な属性[ヴィシェーシャナ]
●サットヴァ、ラジャス、タマスを意味する専門用語マーヤー、アヴィッデャーの構成要素と同時に、考えのある種の状態を示す。
(考えは基本的にはサットヴァ、しかしラジャスに染まるなら怒りやパニックなどにサットヴァが隠され、タマスに圧倒されるなら眠りがもたらされる)
●美徳もグナと呼ばれ、良い心、高貴な質を持つ人、道徳を重んじる人はグナヴァーンと言う。
●「縁、絆」という意味もある
●パーニニのサンスクリット語文法では専門用語の1つで、母音「a」、長母音「e」「o」を示す。
●ある特別な変化[ヴィカーラ]
この詩で、考え・感覚器官・肉体の3つは、全てプラクルティ・グナと呼ばれます。
肉体、考え、感覚器官の組み合わせを、サンスクリット語でカーリヤ・カラナ・サンガータと言います。
物理的な体[カーリヤ]、プラーナ、考え、感覚器官[カラナ]、集まり[サンガータ]は、プラクルティが変化した物[グナ]です。
全ての行いは、物理的な体・考え・感覚器官[プラクルティ・グナ]によってのみ行われます。
行いは、様々な結果を成し遂げる為、様々な知識の源に従い、様々な方法で行われ、ヴェーダに申し付けられた行い[ヴァイディカ・カルマ]、他の全活動[ローキカ・カルマ ]があります。
知識を得るための探究、この世やあの世で様々な結果を得るための探究、全ての行いが含まれます。
自分自身が行い手と考える人[アハンカーラ・ヴィムーダ・アートマー]は、私の観念を思い違いをしている人です。
私という観念、私という感覚は、属性で、「私は〇〇です」と言う時、物理的な体[カーリヤ]、考えや感覚器官[カラナ]は、アハンカーラに不可欠な一部で、その人は様々に思い違い[ヴィムーダ]をします。
絡み合う糸の縺れの様に、人が持つ問題と観念の数々が、思い違い[ヴィムーダ]です。
アハンカーラは「私は死んでしまう人」など、多くの観念を意味し、「私という観念」は、宗教上の観念など、自分自身の何百もの観念に繋ります。
アハンカーラが始まる場所が、カーリヤ・カラナ・サンガータです。
肉体、考え、感覚器官が組み合わさったその場所に「私はこの体・考え・感覚と同じ物」という結論が集約され、長い年月を通して、この「私」についての観念の数々を集め続けるのです。
赤ちゃんは、「私は白人です」「私は黒人です」と思いませんが、育つ過程で、徐々にその様な観念を拾い集め始め、全人生は、アハンカーラを集めることに使われます。
これがこの詩で、その人の考えが幻惑されている[ヴィムーダ]という意味です。
様々な幻惑させられた考えを持つ人[ヴィムーダートマー]は、行いをするのは、物理的な体・考え・感覚器官であるにも関わらず、自分自身が行い手(すなわち、私は足りていない人)「アハム カルター」と考えます。
ですから、これは対象物の無知や、専門的な知識の無知ではなく、根本の無知、「自分自身の思い違い」です。
自分自身が明瞭ではない為、まさに明らかなことが、全く明らかではありません。
一方、アートマーを知る人[アートマヴィト]は、自分自身を行い手とはしません。
アートマヴィトは、行いの全てに気付いている人、行いの数々を明かし、照明を灯す人、何が何をしているのかを識別し、同時に「私は行い手である」と思う事もできます。
しかし、自分自身は行い手(足りていない)と見なす人に、「あなたはカルターではない」と言うなら、混乱させるだけです。
シャーストラの中(前半のヴェーダ)で「カルマをすべきではない」などと提案することは、決してありません。
シャーストラ(ヴェーダーンタ)は、あなたは行い手ではなく、この知識がモークシャだと言います。
あなたは、サンニャーサのライフスタイルでも、カルマ・ヨーガのライフスタイルでも生きれます。
どちらにせよ、「知識がモークシャ」と言われています。
私はカルターと思うその人に、カルマをしないように言う事は無意味です。
誰かがカルマをしないにしても、それは、その人がカルマをしていないという意味ではなく、その人がカルターである限り、立つ、聞くなどの全ての動きはカルマです。
その人が「私は行い手」と考えますから、全てがカルマになります。
この観念がある限り、その人は自分が行い手であると考え、次から次へといつも行い続けます。
アカルターである、という理解は、純粋に知識[ニャーナ]。
カルマをする、しないとは関係がありません。
次の詩でクリシュナは、賢者がなぜカルマに愛着がないのか、その理由を述べます。