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ギーターヨーガ

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【ギーター】第3章27番目の詩

प्रकृतेः क्रियमाणानि गुणैः कर्माणि सर्वशः ।
prakṛteḥ kriyamāṇāni guṇaiḥ karmāṇi sarvaśaḥ |

अहङ्कारविमूढात्मा कर्ताऽहमिति मन्यते ॥३.२७॥

ahaṅkāravimūḍhātmā kartā'hamiti manyate ||3.27||

体、考え、感覚器官、つまり、プラクルティのグナによって行いの数々が様々な方法で為されます。私という観念によって幻惑されて、人は「私は行い手である」と考えます。

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個人は、不変の意識[puruṣa]と、全ての質の源であり変化し続けるマーヤー[prakṛti]の2つの側面があります。

肉体、思考、感覚器官はすべてプラクルティから生じた「変化するもの[vikāra]」であり、本質であるプルシャに頼ってあります。

「グナ」という言葉は文脈によって多様な意味を持ちます。

  • 属性、形容詞[viśeṣaṇa]: 物の性質や特徴(例:花の「黄色」)。

  • 構成要素: 物質や考えの状態を作る3つの性質(サットヴァ、ラジャス、タマス)。

  • 道徳: 高貴な質や美徳。

  • その他: 絆、サンスクリット語の文法用語(母音「a」、長母音「e」「o」を示す)、特定の変化[vikāra]など。

肉体・考え・感覚器官の集まり[kārya-kāraṇa-saṅghāta]は、プラクルティが変化した姿であり、これらもまた「グナ」と呼ばれます。

世俗的な活動から宗教的な行為まで、あらゆる「行い」は、このプラクルティ由来のグナ(体や心)によってのみ行われるものです。

行いをする人

本来、カルマはプラクルティが変化した物「体・心・感覚器官」が行っているものです。

しかし、「私がこれら(肉体や心)であり、私が行い手である」と誤認し、これが「ahaṅkāra-vimūḍha-ātmā」です。

アハンカーラは、成長の過程で「私は〇〇である(人種、宗教、性質など)」という無数の観念を拾い集めます。

これらは糸が複雑に絡まった塊のようなもので、アートマーを覆い隠し、多くの悩みや問題を生む原因となります。

自分自身を意識[puruṣa]ではなく「体と心の集合体[kārya-kāraṇa-saṅghāta]」と同一視することで、人は「私が行いをしている[aham kartā]と思い込みます。

これは「自分自身についての根本的な勘違い」です。

ニャーニーは、自分を行い手とは見なしません。

シャーストラが教えるのは「行動をやめろ」ということではなく、「あなたは本来、行い手ではない」という知識です。

この真実の理解こそが、苦しみからの解放[mokṣa]へと導きます。

行いをしないことは無意味である

自分が「行い手」であるという観念を持っている限り、その人のあらゆる動作(立っていること、聞いていること)は「カルマ」です。

単に目に見える活動を止めたとしても、「自分がしている」という自覚がある限り、カルマから逃れることはできません。

「自分が行いをしていない」と思い込んでいる人に対して「カルマをするな」と助言することは無意味です。

なぜなら、その執着[ahaṃkāra]の根源は行動の有無ではなく、「自分自身をどう定義しているか」という認識の問題だからです。

真の解決は、行動をコントロールすることではなく、自分が本来「アカルター(行い手ではない[a-kartā]」だとを理解することです。

この理解は、物理的な動作の修正ではなく、純粋な知識によるパラダイムシフトです。

自分が「意識[puruṣa]」であることを見抜くならば、肉体や心が動いていても、自分自身は不変であり、何も行っていないという真理に到達します。

次の詩でクリシュナは、賢者がなぜカルマに愛着がないのか、その理由を述べます。