千葉県立 青葉の森公園近くの小さなヨガ教室

ギーターヨーガ

ヨガ 勉強会  個人レッスン・出張ヨガ 私について ブログ アクセス スケジュール・予約 お問い合わせ

【ギーター】第3章28番目の詩


तत्त्ववित्तु महाबाहो गुणकर्मविभागयोः ।
tattvavittu mahābāho guṇakarmavibhāgayoḥ |

गुणा गुणेषु वर्तन्त इति मत्वा न सज्जते ॥३.२८॥

guṇā guṇeṣu vartanta iti matvā na sajjate ||3.28||

ところが、アルジュナよ。体-考え-感覚器官の集合物との違い、行いとの違いを識別していて真実を知る人は、感覚器官や考えや行動器官がそれ自身でそれぞれの対象物だけにかみ合って動いていることを知っていて、束縛されません。

-

「体・心・感覚」の集まり[kārya-karaṇa-saṅghāta]を自分そのものだと思い込み、それ以外の自己を識別できていません。

この「勘違い」が個性を生み、他者との隔たりを作ります。

賢者も日常生活を送るために「体・心・感覚」を自分として扱いますが、本質的にはそれらと自分を切り離して捉えています。

賢者であっても、思考や行動(話す、見るなど)を行うためには、「体・心・感覚」を自分とする自己認識[ahaṃkāra]が必要です。

幻想の本質

賢者[jñānī]、無知な人[a-jñānī]、両者とも「アハンカーラ」を使って日常生活を送りますが、その認識のあり方がが異なります。

無知な人は、体・心・感覚を「自分そのもの」だと信じ込んでいます。その結果、自分と他者を分断し、サムサーラの中に留まります。

一方で賢者は、 体・心・感覚を「道具[karaṇa]」として使いながらも、それらを「自分自身」とは見なしません。

サンスクリット語の "iva" は「〜のような」「あたかも〜のごとく」を意味します。

真実の視点では二元性(自分と他者の区別)は存在しません。

しかし、体という「器」が個々に異なるため、「まるで」違いがあるかのように見えているだけです。

この「まるで」に騙され、二元性が「本当にある」と信じると、死や時間の制限[saṃsāra]に縛られます。

「タット・トヴァ・ヴィト[tattva-vit]という言葉は、「それ/あれ[tat]+「〜であるということ/ness[tva]」。

「それの本質」すなわち「真理」です。

例)Pot(壺)+ ness = Potness(壺の本質)。

「知る者[vit]」とは、自分と世界、神の「本質」を見抜いている人で、変化するグナと、変化しないアートマーを識別できる人を指します。

アートマーは、行い手(主体)の本質で、道具ではありません。

考え、感覚、肉体などの道具[karaṇa]は、活動しますが、それ自体は私ではありません。

「私の考えが動いている」のであって「私が動いている」のではない、という識別です。

◎主体とその道具 

私が手に持っているフォークを「自分自身だ」と思わないのと同じように、体や心も「操作している対象」であって「自分」ではありません。

「扱っているもの」と「扱われているもの」が同一であることはあり得ませんから、私が認識・操作できる「体」や「考え」は、自分自身ではないのです。

真実を知る人は、アートマーは何もしない主体であること、アナートマーは変化し、活動する道具であることを識別できるからこそ、その人は「真実を知る者」と呼ばれます。

「私がしている」という観念を分析するなら、アートマーは行い手ではないので、何の活動もしません。

肉体・考え・感覚が活動しています。

 願望や決定は「考えの形[vṛtti]」です。

これらはアートマーがあって生じますが、アートマーそのものではありません。

願望が湧いても、それに従うかどうかを決める判断は、知性[buddhi]が行い、この決定のプロセスも道具の働きの一部です。

この詩でクリシュナは、賢者[jñānī]、前の詩で述べられた無知な人[a-jñānī]を対比します。

全てはただプラクルティの変化

私たちは「私が世界を見ている」と考えますが、実際には自然や物質[prakṛti]同士が相互作用しているだけです。

感覚器官が対象物の中で動いているに過ぎません。

見えることも、見られるものも、すべては物質的エネルギー[prakṛti]の移り変わりに過ぎません。

「執着を手放そう」と努力する人は、実はその対象を頭の中に握りしめています

それは、「ゴミを捨てた」と言いながら頭にゴミを置いているようなものです。

 アートマーは関わりがありません[a-saṅga]です。

「執着がない」とは、努力して到達することではなく、「私はもともと、何ものにも汚されない、関わりのない存在である」という事実を正しく知ることです。

「私は行い手である」という観念がなくなることが、カルマからの自由を意味します。

行動を物理的に止めることではなく、「アートマーは一切の行為に直接関与していない」という知識に安らぐことがナイシュカルミャです。

体や考えは動いているが、自分自身の本質は何もしていないという認識があるので、カルマに束縛されることがありません。

あなたは行い手ではないと知って何をしますか?

アカルターを理解する準備ができていない人には、単に何もしないこと(怠惰)への口実になってしまいます。

自分をカルターだと勘違いを抱えたままの人には、アカルマの話はせず、ダルマに従うことを教えます。

盗むという行為が「悪いこと」というのは、聖典を読まずとも子供ですら知っている共通の感覚[sāmānya-dharma]です。

自分がされて嫌なことは、他人にもしない、それは人間であれば、誰もが持つ本能的な知識です。

「悪いことをしても、うまく隠せば逃げ切れる」という人間の傲慢な思い込みを正すために、聖典は「特別な情報」を提供します。

行いをした瞬間に、プウニャ・パーパが負債や貯蓄として個人の口座に記録されるこの法則は、宇宙のプログラムです。

負債を消すには、それ相応の浄化の行為や知識が必要です。

この知識の見地からどのように他の人を助けるのか

準備のできていない人にとって、ヴェーダーンタの教えは「役に立たない世捨て人の思想」や「心の病」に見えてしまうことさえあります。

両親は、自分たちの育て方が悪かったと罪悪感を持たせたりする結果になりかねません。

真実に関心を持たない限り、混乱を招くだけです。

多くの人が、執着のない状態[a-saṅga]に’’なろう’’と一生を費やしますが、アサンガは努力してなるものではなく、「既にそうであるという事実」です。

「アートマーを体験する」という言葉も矛盾しています。

体験は、体験者(主体)と体験される物(対象)という二元性が必要ですが、アートマーはそれらを超えた唯一の存在だからです。

賢者は、体験を追い求めるのではなく、「私は最初から、いかなる執着とも無縁なアートマー」という事実を理解します。

クリシュナは、真実を知った者が、まだ「自分は行い手(カルター)だ」と信じている人々[a-jñānī]を混乱させてはならないと注意を促します。

行いを断つのではなく、その人がダルマに従った行動できるように見守ることが、真の賢者の振る舞いです。