तत्त्ववित्तु महाबाहो गुणकर्मविभागयोः ।
tattvavittu mahābāho guṇakarmavibhāgayoḥ |
गुणा गुणेषु वर्तन्त इति मत्वा न सज्जते ॥३.२८॥
guṇā guṇeṣu vartanta iti matvā na sajjate ||3.28||
ところが、真実の知るマハーバーフよ!
(私と)グナ、(私と)カルマの違いを知る人は
グナが、グナの対象物だけに従事すると知るので、束縛されません
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マーヤーとも呼ばれるプラクルティは、それ自体が全ての物事に変化し、全ての物事の原因です。
体や考えや感覚はプラクルティ、感覚の対象物、世界[ジャガット]もプラクルティ、全てはプラクルティの移り変わり[グナ]です。
この2つのプラクリティは、知覚や行いの道具の形[カーリヤ・カラナ・プラクルティ]と、対象物の形[ヴィシャヤートミカ・プラクルティ]で、お互いに接触します(音は、物理的な耳があって、対象物を捉え、考えに輝きます)。
この詩は、知覚や行いの道具であるグナが、それぞれの対象物の領域で、活動に従事していると述べています。
目そのものが、形や色という領域での活動に従事しますから、見えることも、見られるものもグナです。
グナは、それぞれの対象物に関して[グネーシュ]、活動に従事します[ヴァルタンテー]。
賢者は、「私は、全くどんな行いもしない」と知り[マットヴァー]、束縛されません[ナ サッジャテー]。
タットヴァヴィトは、何もしていない事を知ってますから、どんなカルマにも取り付かれはしませんし、愛着はあり得ないのです。
もし、カルマに取り付かれるのであれば、アートマーから離れていない(一緒くたの)ヴルッティがあるのです。
アートマーは、どんなヴルッティからもいつも自由ですから、繋がり、愛着はありません[アサンガ]。
「愛着を持たないように!」と言うのは、アサンガではなく、アサンガとは、知られるべき事実なのです。
「なる」はありませんから、愛着を持たなくなることは出来ません。
例え「愛着を手放しました」と言っても、それについて話しているなら、頭の中にまだゴミを持っています。
ゴミは外にありましたが、それは今、内にあるのです。
愛着から離れていることは、アートマーの本質として、既に成し遂げられている事実ということを知り[イティ マットヴァー]、その人は束縛されません[ナ サッジャテー]。
その人には、行い手という観念はなく、行いが無い事そのもの[ナイシュカルミャ]が自分自身であり、得るものでは無いことを知っています。
「私は行い手」という観念が無い時、カルマがありませんから、全てのカルマから自由なのです。
「私は行い手では無い」ことを知る人が、自分の身近な人の幸せの為に「カルマをしないように」と言うのは、「カルマをすることは束縛だ」と同じ意味ですから、自分自身をカルターと考える人は、勘違いし、ただ怠慢になります。
ですから、その人には、聖典が申し付ける「ダルマに従って行いをする」ということを伝えます。
全ての行いの中に、普遍的に暗示されること[サーマンニャダルマ]を疎かにせず、自分は盗まれたくないのに、誰かの物を盗むなら、それから逃れられず、それ相応の結果が返ってくると、聖典は言います。
子供でも分かる「盗んではいけない」などの、良い悪いのセンス[サーマンニャダルマ]を、道徳として述べる必要はなく、ア・ダルマによって失うこと、「ア・ダルマな行いから逃れることは出来ない」ことを伝えるのです。
これは、通常の範囲、すなわち五感と考えを超えたエリアの情報です。
ア・ダルマな行いから逃れることが出来ないのは、回避するのが不可能な法則があるからです。
ア・ダルマな行いをした瞬間に、自分名義で負債が登録されます。
全法則が、プンニャとパーパをベースに、自動的に記録されるので、この法則を誤魔化す方法などなく、どんな行いも記録される様にプログラムされています。
この法則は、天才であるカルターで、個人が操作できるものではありませんが、個人は異なった作用をする道具[नित्यकर्म、नैमित्तिककर्म、प्रायश्चित्तकर्म]で、それを中和することが出来るという新事実も、聖典で述べられています。
聖典の話す、この追加情報は天啓で、これを知る為の他の方法など無いので、聖典は「啓示された知識」の地位を与えられています。
自分自身をカルターと認識し、行いをする人は、カルマは束縛の状態ですから「行いをしない」などと言ってはなりません。
カルマをヨーガに変換しない限り、それは束縛ですが、「行いをしない」などと言っても、人を自由には出来ません。
私にとって大切な人が、私の言葉を大事にするなら、お互い知っていることで分かち合うことが出来ます。
そうでなければ、話は滑ってしまいますから、この知識を、自分の両親に説明するようなものです。
両親は理解せず、「少し厳しく育て過ぎたから、この子は、このスワミの話を聞くのだ」と言うかもしれません。
この知識の真の価値を、両親に確信させることは不可能ですから、説明しようと試みるなら、ただ罪悪感を抱かせるだけです。
子供が完全に混乱していると感じ、両親はただ同情します。
でも、もし両親が、子供の言葉に関心があるなら「アートマーがア・カルターである」と、真実を話すことができます。
モダン・ヴェーダーンタの「ア・サンガにならねばならない」という教えから、ア・サンガになろうとして全人生を費やす人達がます。
時には「あなたはアサンガ・アートマーを体験するべきだ」とも言われますが、体験する人、体験される対象物はあり得ません。
なぜなら、私が全てですから。
「アサンガ・アートマーを体験する」には、他のアートマーによって体験さなければなりませんから、この方法で体験する全ては、アナートマーで、アートマーでは無いのです。
ア・サンガであるアートマーが理解されなければなりません。
クリシュナは「賢者は、自分自身を行い手として認識している人々を混乱させないように」と、さらなる警告を次の詩でします。