
इन्द्रियाणि मनो बुद्धिरस्याधिष्ठानमुच्यते ।
indriyāṇi mano buddhirasyādhiṣṭhānamucyate |
एतैर्विमोहयत्येषो ज्ञानमावृत्य देहिनम् ॥३.४०॥
etairvimohayatyeṣo jñānamāvṛtya dehinam ||3.40||
その場所は感覚器官、考え、そして知性だと言われました。それ[kāma]は、これらと一緒になって、知識を隠して、その人を惑わします。
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クリシュナは、人が「すべきでない」と知りつつ不適切な行いに走る原因は、外的な勢力でも自分自身でもなく、欲望[kāma]という「悪党」にあると説いています。
アダルマな行いの多くは、達成したい「ゴール」そのものではなく、そこに至るための「方法」において生じます。
特定のゴールが自分にとって重要になりすぎると、願望は「結果」のみに執着し、手段の正当性を疑問視しなくなります。
その結果、本来選ぶべきでない不適切な方法に妥協してしまうのです。
混乱を引き起こすのは自分自身の本質[śuddha]でも、体や考え、感覚器官でもありません。
体・考え・感覚器官はただの「場所」や「道具」であり、それ自体に善悪はありません。
束縛を伴う欲望[kāma]だけが、これらの道具を乗っ取り、誤った方向へ動かします。
これは、警察が泥棒を扱う方法に似ていて、警察が常習犯の手口やパターンを基に、常習犯を調査し分析します。
同様に、願望が働く領域が分かれば、カーマは管理し処理することが簡単です。
◎アートマーは願望から自由
アダルマな行いへと駆り立てる敵、カーマを管理するためには、それがどこを拠点[adhiṣṭhāna]にして活動しているかを知る必要があります。
まず重要なのは、私たちの本質である アートマーには欲望が存在しないという事実です。
アートマーは純粋な存在・意識[sat-cit]であり、思考に光を与えますが、それ自体は何の性質も持たず、欲望に染まることもありません。
欲望は 、アートマーではなく、アートマーによって照らし出される「考え」の中に現れます。
欲望は以下の3つの領域を「居場所」として利用し、私たちを翻弄します。
感覚器官[indriya]: 対象物を知り、味わい、欲望を満たすための入り口。
考え[manas]: 欲望の始まりである「空想」を作り出す場所(ex.ハワイに行ったらのんびり出来るかも)。
知性[buddhi]: 欲望を満たすための具体的な「決定」を下す場所(ex.よし、ハワイに行こう!!)。
カーマがこれら3つの拠点を乗っ取ると、その威力は人の 知識[jñāna]を完全に覆い隠してしまいます。
まるで「目隠し」をされたかのような状態になり、正しい判断ができなくなります。
◎妄想を取り除く
欲望そのものが湧き上がるのを止めることはできませんが、その欲望に振り回されないために、私たちはシャマとダマを実践することができます。
思考のレベルでの制御[śama]
欲望は過去の経験や性質[prakṛti]から自然に湧き上がるものであり、それ自体をコントロールすることは不可能です。
しかし、「自分自身と欲望の間に距離を置くこと」は可能です。
湧き上がった願望に対して、「それは適切か?」「本当に必要か?」「今の自分にとって優先順位は高いか?」と冷静に探究[vicāra]することです。
欲望に自分を明け渡さず、理性的で慎重な熟考によって行動を選択できるようになります。
感覚のレベルでの制御[dama]
欲望が行動として現れようとする直前、あるいは行動の最中に、物理的にブレーキをかける力です。
例えば、食欲が「もっと食べたい」と騒いでいても、「もう十分」と自分に言い聞かせて箸を置くような行為です。
感覚の追求を入り口(感覚器官)で、弱めたり止めることを指します。
私たちは、何を願望するかを選ぶことはできませんが、その願望に従うかどうかを決定する力(自由意志)を持っています。
シャマで願望を客観的に見極め、ダマで感覚的な深追いを止める。
この2つを日常的に練習することで、欲望があなたを支配するのではなく、あなたが欲望を「うまくやりくり」できるようになります。
願望に沿って進んでも、自分自身の決定を願望にさせませんように。
そして、願望の向け先を大事なものに向けれますように。
願望をうまく扱うために、注意深くいることを、次の詩でクリシュナが扱います。
