2020/11/16
アルジュナの理解は、行為を求めながら、同時に知識とその追求をもクリシュナは賞賛している。
「なぜ、あなたはこの恐ろしい行為を、私に求めるのですか」アルジュナの質問が2番目の詩にも続きます。
व्यामिश्रेणेव वाक्येन बुद्धिं मोहयसीव मे ।
vyāmiśreṇeva vākyena buddhiṃ mohayasīva me |
तदेकं वद निश्चित्य येन श्रेयोऽहमाप्नुयाम् ॥३.२॥
tadekaṃ vada niścitya yena śreyo'hamāpnuyām ||3.2||
まるで矛盾している様に思える言葉で、あなたは私の考えを困惑させている様に思えます。
どちらが良いか決め、自由を得る為の1つを私に教えて下さい。[3-2]
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クリシュナの言葉は、矛盾していると、アルジュナは言わず”矛盾しているように思える”と言いました。
この様な状況の時、どの様に、言葉を発するのか?
という暗示が与えられています。
人が集まれば、対話の中に非難の言葉を耳にします。
誰かに、あれやこれやをされた、と思う時「〇〇さんは、こういう事を私にした!」と言うかもしれませんが、これでは、〇〇さんは守りの体制に入り言うことを受け入れてくれません。
そして私は、自分の思いを軽視された、理解されていない、と考えます。
〇〇さんも、自分は非難されている、全く理解してもらえないetcと感じます。
コミュニケーションがないだけでなく、誤解もあります。
アルジュナの使った”まるで[イヴァ]”という言葉は、コミュニケーションにおける基本的法則を示し、教えます。
コミュニケーションする相手に、守りの態勢をとらせないよう努めます。
アルジュナは「自分を混乱させている」と言う事でクリシュナを責めているのでも、言葉が矛盾していると言っているのでもありません。
「私を混乱させているように思える」と言いました。
つまり、「私は理解出来ていない」と言っているのです。
アルジュナのクリシュナへのシュラッダーの態度です。
ヴェーダーンタの文献タットヴァボーダで、シュラッダーは
गुरु-वेदान्त-वाक्येषु विश्वासः
と定義されています。
わたしの知識[ブランマ・ヴィッディヤー]、それを教える先生[グル]と知るための道具[プラマーナ]であるヴェーダーンタの言葉に全信頼=それ以外のプラマーナは無いという理解をおいています。
対象物は何であれ、人間が何かを知る時には、その対象物を知る道具[プラマーナ]が必要です。
プラマーナを通してのみ、人は何かを知ることが出来ます。
色や形を知る為に「目」というプラマーナを使い、音を知る為に「耳」というプラマーナを使う。
色や形を知る為に「耳」では知識が明かせません。
明日晴れるか?を知る為に目で見たデータを元にし、それを論理的に処理して結果に導く「推測」というプラマーナを使います。
自分と世界の本質を知る為には「ヴェーダーンタ」をプラマーナとして使います。
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ヴェーダで述べられる全カルマとその結果は、雨季で水でいっぱい状態の井戸の様なもの。
水が、至る所で手に入るなら井戸の水は、何の役に立つのでしょう?
同様に、自分自身が満たされていて何の限界もないことを知る賢者には、私に安全を与え、幸せを与えるものは必要ではありません[2-46]
安全や幸せに価値が無い、といことではなく、無くても、既に満たされているということです。
クリシュナ神が賢者を讃え言いました。
賢者を讃えることで、智慧が讃えられます。
クリシュナは智慧を讃え、知識がモークシャに相応しいことをハッキリさせました。
ですから、アルジュナに行動するよう求めたことは、私を混乱させているように思える、とアルジュナはクリシュナに言いました。
アルジュナの混乱は、行い[カルマ]、知識のどちらか1つがBest[シュレーヤス]に導く、という結論に基づいていました。
行い[カルマ]は、人の意志によって生み出され、4つタイプの結果が生み出されます。
1.私によって作り出されるもの
2.既に作り出されていて、私に修正され、破壊されるもの
3.私に清められ、浄化されるもの
4.既にある場所に到達する
世俗的、宗教的、どんな行動も、これらの4種類の結果の中の1つを生み出します。
自由[モークシャ]は、生み出されるものではありません。
モークシャが、作り出されるものなら、消えて無くることにもなります。
例えば、.わたし[アートマー]を浄化し、モークシャが達成出来るなら、アートマーは、またすぐに汚れ、毎日磨かなければなりません。
アートマーは、自分自身なので、離れていないので、到達することは不可能です。
アートマーが修正されたものがモークシャなのでもありません。
修正され得るものは、時間に左右されますから、得られたモークシャは、後に失います。
また、アートマーが修正されるものである為には、私に具体的に捉えられるものでなければなりませんが、アートマーは自分自身なので自分の手で掴める様なものではありえません。
それゆえ、私が、修正できる様なものでもないのです。
自己とは、既に達成されていて、モークシャは私そのもの、私自身なのです。
しかし、クリシュナはアルジュナにカルマをするように求めました。
アルジュナは、1.知識か、2.カルマかどちらか1つに決め欲しいと頼みました。
それが、カルマであるのなら、アルジュナは、その理由が知りたかったのです。