千葉県立 青葉の森公園近くの小さなヨガ教室

ギーターヨーガ

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【ギーター】第3章03番目の詩

श्रीभगवान् उवाच ।

śrībhagavān 1/1 uvāca III/1 |

लोकेऽस्मिन् द्विविधा निष्ठा पुरा प्रोक्ता मयाऽनघ ।

loke7/1asmin 7/1 dvividhā1/1 niṣṭhā1/1 purā0 proktā1/1 mayā3/1anagha8/1|

ज्ञानयोगेन साङ्ख्यानां कर्मयोगेन योगिनाम् ॥३.३॥

jñānayogena3/1sāṅkhyānāṃ6/3karmayogena3/1yoginām6/3 ||3.3||

シュリー バガヴァーンが言いました。

おお、罪のない者よ。最初に私によって語られましたが、この世には、2つの専心した生き方があります。隠退した者にとっての知識の追求、ニャーナヨーガと、行いを追求する者にとっての行いを道具とした追求、カルマ・ヨーガです。

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ギーターにおいて、クリシュナは、Mr.クリシュナとしてではなく、イーシュワラとして語っています。

彼はアヴァターラであり、その本質を理解する人は誰でも、神の視点から真実を語ることが可能であるとされています。

クリシュナは、人間にはゴールであるモークシャに至るための、2つの専心すべき道[niṣṭhā]があると言いました。

●ニャーナ・ヨーガ(サーンキャ): 知識を手段とする道。世俗の義務[karma]を放棄し、知識の追求のみに専心するサンニャーシーのための生き方です。

●カルマ・ヨーガ: 行いを道具とする道。家庭を持ち、社会的な義務を果たしながら精神性を高めるヨーギーのための生き方です。

※ここでいう「サーンキャ」とは、ヴェーダーンタの主題である「アートマーはブランマンである」という知識そのもの、あるいはそれを追求する生き方を指します。

ニシュターは、ヴェーダ文化における人生の段階[āśrama]と深く関わっています。

1.ブランマチャーリヤ: 学生期。学びの期間。

2.グラハスタ: 家住期。家族を養い、社会的な義務を果たす期間。

3.ヴァーナプラスタ: 林住期(隠退の準備期)。世俗から距離を置き、精神修行に重きを置く期間。

4.サンニャーサ: 完全な隠退。全ての所有物や義務を手放し、知識の追求のみに生きる最終段階。

本来、サンニャーサは段階を経て到達するものですが、内面の準備(執着のない平静さ)が整っていれば、どの段階からでも移行することが認められています。

アルジュナに対し、クリシュナはこれら2つの道の違いを明確にし、最終的なモークシャへの道筋を示しました。

サンニャーシーの種類

サンニャーサには、その目的や状況に応じて以下の3種類があります。

1. ヴィドヴァット・サンニャーサ

  • 対象者: すでにニャーニーである人。

  • 特徴: 知識を得た結果として、世俗的な義務や責務が自然と消滅します。

  • 条件: 人生のどのアーシュラマにいても、知識を得た時点でこのサンニャーサに入ることができ、すべての社会的義務から自由になります。

2. ヴィヴィディシャー・サンニャーサ

  • 対象者: 知識を得たいと切望し、自分自身を知ることに専心したい人。

  • 特徴: ヴィヴェーカ・ヴァイラーギャなどの資質を備え、知識を得るための手段としてこの生活スタイルを選びます。

  • 目的: 知識の追求を妨げる世俗の雑事から離れ、学びに没頭するために取得されます。

3. アーパト・サンニャーサ

  • 対象者: 死が間近に迫っている人。

  • 特徴: 危険・緊急[āpat]という名の通り、死ぬ間際にサンニャーシーとして生涯を終えるために行われます。

  • 方法: 通常の儀式やグルを必要とせず、神々や自然界を証人として自ら宣言することで成立します。もし生き延びた場合は、その誓いが正式なものとして認められます(例:幼少期のシャンカラ)。

サンニャーサは、ヴェーダにおいて非常に賞賛されるステージです。それは単なる義務の放棄ではなく、知識に専念するための環境を整えること、あるいは知識によって義務を超越することを意味しています。

シャンカラはどのようにサンニャーシーになったのか

幼少期のシャンカラは隠退生活を望んでいましたが、母親の反対に遭っていました。

ある時、川でワニに足を掴まれ命の危機に瀕した際、彼は「アーパト・サンニャーサ」の誓いを立てることを母に許させました。

誓いを立てるやいなやワニは彼を放し、シャンカラは正式なサンニャーシーとして歩み始めることになりました。

死の直前に立てた誓いであっても、生き延びた場合はその誓いは有効であり、後にグルによって承認されることで正式なものとなります。

人々がサンニャーサ・アーシュラマを尊ぶのには、サンニャーシーとして死を迎えれば、再び生まれ変わることはないという期待があるからです。

また、モークシャへの道が約束されるという信念や、もし再び生まれることになっても、前世でのサンニャーサの経験により、次は幼少期から学びに専念できるような環境(家庭)に恵まれるという、シュラッダーに基づいた期待もあります。

サンニャーシーの最後の儀式

サンニャーサに入る際、すべての社会的・宗教的義務を手放すための特別な儀式を行います。

サンニャーシーは、それまで義務付けられていたヴェーダの火の儀式をすべて終了させ、それまで祭壇で燃えていた火を、知識の火へと統合する儀式を執り行うことで、儀式的な行為を行う必要がなくなります。

父母や先祖、デーヴァやリシたちに別れを告げ、知識の追求に専念するための祝福を求め、あらゆる生き物を傷つけず、社会的・経済的な競争からも退くことを誓います。

モークシャを象徴する北へ向かって歩き出しますが、そこでグルによって引き戻され、簡素な衣を与えられて学びの生活が始まります。

アートマーは本来、何も行わず、誰にも行わせないという真実を知ることが、ナイシュカルミャです。

たとえ肉体が活動していても、知識によって「自分は行い手ではない」と理解することを、ニャーナ・カルマ・サンニャーサと呼びます。

このニャーナ・カルマ・サンニャーサのために、人は、自己の知識を求めて、サンニャーサの生き方を選びます。

カルマ・ヨーガは、その他のアーシュラマにいる全ての追求者のためのものです。

カルマヨーガの目的

通常、カルマは限られた結果しか生まず、執着を生むため束縛となりますが、以下の目的で行うとき、それは「ヨーガ」へと変わります。

  • アンタッカラナ・シュッディのため。

  • ラーガ・ドヴェーシャを中和するため。

  • 行いの結果をイーシュワラからのプラサーダとして受け取るため。

サンニャーサは、単にオレンジ色の衣を着ることではありません。

カルマ・ヨーガを通じて、ラーガ・ドヴェーシャをある程度扱えるようになっている必要があります。

そうでなければ、静かに座って真理を熟考することができず、心の動揺に苦しむ、みじめなサンニャーシーになってしまいます。

サンニャーシーは、朝から晩まで知識の追求(学びと熟考)のみに専念する生活であり、音楽やその他の世俗的な楽しみもすべて手放した状態を指します。

どちらの道を選んでも、最終的なゴールは同じシュレーヤスです。

モークシャを目的とせず、ただ義務や欲望で動く人は、カルマ・ヨーギーではなく単なるカルミー(行い手)と呼ばれます。

『イーシャーヴァーシャ・ウパニシャド』の最初の2つのマントラが、この2つの道を象徴しています。

「すべてを神として見て、手放して自己の知識を追い求めなさい」 → サンニャーサ

「正しい心構えで行いをして100年生きなさい」 → カルマ・ヨーガ

生き方の選択

ヴェーダの宇宙観において、人間が知性[buddhi]と見極め[viveka]を用いて到達すべき唯一のゴールは、苦しみや束縛からの自由[mokṣa]です。

これこそが、人として生まれたことの「大成功」の意味です。

モークシャのための手段は、例外なく「知識」だけです。

私たちは「知識か、行いか」を選ぶのではなく、「どのようなライフスタイルで知識を追求するか」を選ぶことができるのです。

一見すると、牛のお世話や、湿った薪での儀式に追われるカルマ・ヨーガよりも、勉強に専念するサンニャーサの方が「簡単で近道」に見えます。

しかし、クリシュナはそれが「見かけほど簡単ではない」と言います。

物理的に捨てても、心の中に怒りや恨み、執着があれば、座っていても勉強に集中できず、ぼんやりと一日を過ごすことになります。

アルジュナは森での12年間、ドゥルヨーダナへの怒りや王国の不条理を「瞑想(執着)」し続けてきました。

心の深い傷がある状態では、形だけサンニャーシーになっても、真の放棄は達成されません。

ですから、サンニャーサがどんなに素晴らしく見えても、多くの人にとってカルマ・ヨーガは、真のサンニャーサに至るための道を整える不可欠なステップです。

行いを通じて考えを浄化することが、やがて「知識を得たい」という純粋な願い[vividiṣā]へとつながっていくのです。

※「知る[vid]」という音が繰り返され、願望を表す接辞[sa]が加わり、「知ることを欲する」という意味になる。