
श्रीभगवान् उवाच ।
śrībhagavān 1/1 uvāca III/1 |
लोकेऽस्मिन् द्विविधा निष्ठा पुरा प्रोक्ता मयाऽनघ ।
loke7/1asmin 7/1 dvividhā1/1 niṣṭhā1/1 purā0 proktā1/1 mayā3/1anagha8/1|
ज्ञानयोगेन साङ्ख्यानां कर्मयोगेन योगिनाम् ॥३.३॥
jñānayogena3/1sāṅkhyānāṃ6/3karmayogena3/1yoginām6/3 ||3.3||
シュリー バガヴァーンが言いました。
おお、罪のない者よ。最初に私によって語られましたが、この世には、2つの専心した生き方があります。隠退した者にとっての知識の追求、ニャーナヨーガと、行いを追求する者にとっての行いを道具とした追求、カルマ・ヨーガです。
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ギーターにおいて、クリシュナは、Mr.クリシュナとしてではなく、イーシュワラとして語っています。
彼はアヴァターラであり、その本質を理解する人は誰でも、神の視点から真実を語ることが可能であるとされています。
クリシュナは、人間にはゴールであるモークシャに至るための、2つの専心すべき道[niṣṭhā]があると言いました。
●ニャーナ・ヨーガ(サーンキャ): 知識を手段とする道。世俗の義務[karma]を放棄し、知識の追求のみに専心するサンニャーシーのための生き方です。
●カルマ・ヨーガ: 行いを道具とする道。家庭を持ち、社会的な義務を果たしながら精神性を高めるヨーギーのための生き方です。
※ここでいう「サーンキャ」とは、ヴェーダーンタの主題である「アートマーはブランマンである」という知識そのもの、あるいはそれを追求する生き方を指します。
ニシュターは、ヴェーダ文化における人生の段階[āśrama]と深く関わっています。
1.ブランマチャーリヤ: 学生期。学びの期間。
2.グラハスタ: 家住期。家族を養い、社会的な義務を果たす期間。
3.ヴァーナプラスタ: 林住期(隠退の準備期)。世俗から距離を置き、精神修行に重きを置く期間。
4.サンニャーサ: 完全な隠退。全ての所有物や義務を手放し、知識の追求のみに生きる最終段階。
本来、サンニャーサは段階を経て到達するものですが、内面の準備(執着のない平静さ)が整っていれば、どの段階からでも移行することが認められています。
アルジュナに対し、クリシュナはこれら2つの道の違いを明確にし、最終的なモークシャへの道筋を示しました。
◎サンニャーシーの種類
サンニャーサには、その目的や状況に応じて以下の3種類があります。
1. ヴィドヴァット・サンニャーサ
対象者: すでにニャーニーである人。
特徴: 知識を得た結果として、世俗的な義務や責務が自然と消滅します。
条件: 人生のどのアーシュラマにいても、知識を得た時点でこのサンニャーサに入ることができ、すべての社会的義務から自由になります。
2. ヴィヴィディシャー・サンニャーサ
対象者: 知識を得たいと切望し、自分自身を知ることに専心したい人。
特徴: ヴィヴェーカ・ヴァイラーギャなどの資質を備え、知識を得るための手段としてこの生活スタイルを選びます。
目的: 知識の追求を妨げる世俗の雑事から離れ、学びに没頭するために取得されます。
3. アーパト・サンニャーサ
対象者: 死が間近に迫っている人。
特徴: 危険・緊急[āpat]という名の通り、死ぬ間際にサンニャーシーとして生涯を終えるために行われます。
方法: 通常の儀式やグルを必要とせず、神々や自然界を証人として自ら宣言することで成立します。もし生き延びた場合は、その誓いが正式なものとして認められます(例:幼少期のシャンカラ)。
サンニャーサは、ヴェーダにおいて非常に賞賛されるステージです。それは単なる義務の放棄ではなく、知識に専念するための環境を整えること、あるいは知識によって義務を超越することを意味しています。
◎シャンカラはどのようにサンニャーシーになったのか
幼少期のシャンカラは隠退生活を望んでいましたが、母親の反対に遭っていました。
ある時、川でワニに足を掴まれ命の危機に瀕した際、彼は「アーパト・サンニャーサ」の誓いを立てることを母に許させました。
誓いを立てるやいなやワニは彼を放し、シャンカラは正式なサンニャーシーとして歩み始めることになりました。
死の直前に立てた誓いであっても、生き延びた場合はその誓いは有効であり、後にグルによって承認されることで正式なものとなります。
人々がサンニャーサ・アーシュラマを尊ぶのには、サンニャーシーとして死を迎えれば、再び生まれ変わることはないという期待があるからです。
また、モークシャへの道が約束されるという信念や、もし再び生まれることになっても、前世でのサンニャーサの経験により、次は幼少期から学びに専念できるような環境(家庭)に恵まれるという、シュラッダーに基づいた期待もあります。
◎サンニャーシーの最後の儀式
サンニャーサに入る際、すべての社会的・宗教的義務を手放すための特別な儀式を行います。
サンニャーシーは、それまで義務付けられていたヴェーダの火の儀式をすべて終了させ、それまで祭壇で燃えていた火を、知識の火へと統合する儀式を執り行うことで、儀式的な行為を行う必要がなくなります。
父母や先祖、デーヴァやリシたちに別れを告げ、知識の追求に専念するための祝福を求め、あらゆる生き物を傷つけず、社会的・経済的な競争からも退くことを誓います。
モークシャを象徴する北へ向かって歩き出しますが、そこでグルによって引き戻され、簡素な衣を与えられて学びの生活が始まります。
アートマーは本来、何も行わず、誰にも行わせないという真実を知ることが、ナイシュカルミャです。
たとえ肉体が活動していても、知識によって「自分は行い手ではない」と理解することを、ニャーナ・カルマ・サンニャーサと呼びます。
このニャーナ・カルマ・サンニャーサのために、人は、自己の知識を求めて、サンニャーサの生き方を選びます。
カルマ・ヨーガは、その他のアーシュラマにいる全ての追求者のためのものです。
◎カルマヨーガの目的
通常、カルマは限られた結果しか生まず、執着を生むため束縛となりますが、以下の目的で行うとき、それは「ヨーガ」へと変わります。
アンタッカラナ・シュッディのため。
ラーガ・ドヴェーシャを中和するため。
行いの結果をイーシュワラからのプラサーダとして受け取るため。
サンニャーサは、単にオレンジ色の衣を着ることではありません。
カルマ・ヨーガを通じて、ラーガ・ドヴェーシャをある程度扱えるようになっている必要があります。
そうでなければ、静かに座って真理を熟考することができず、心の動揺に苦しむ、みじめなサンニャーシーになってしまいます。
サンニャーシーは、朝から晩まで知識の追求(学びと熟考)のみに専念する生活であり、音楽やその他の世俗的な楽しみもすべて手放した状態を指します。
どちらの道を選んでも、最終的なゴールは同じシュレーヤスです。
モークシャを目的とせず、ただ義務や欲望で動く人は、カルマ・ヨーギーではなく単なるカルミー(行い手)と呼ばれます。
『イーシャーヴァーシャ・ウパニシャド』の最初の2つのマントラが、この2つの道を象徴しています。
「すべてを神として見て、手放して自己の知識を追い求めなさい」 → サンニャーサ
「正しい心構えで行いをして100年生きなさい」 → カルマ・ヨーガ
◎生き方の選択
ヴェーダの宇宙観において、人間が知性[buddhi]と見極め[viveka]を用いて到達すべき唯一のゴールは、苦しみや束縛からの自由[mokṣa]です。
これこそが、人として生まれたことの「大成功」の意味です。
モークシャのための手段は、例外なく「知識」だけです。
私たちは「知識か、行いか」を選ぶのではなく、「どのようなライフスタイルで知識を追求するか」を選ぶことができるのです。
一見すると、牛のお世話や、湿った薪での儀式に追われるカルマ・ヨーガよりも、勉強に専念するサンニャーサの方が「簡単で近道」に見えます。
しかし、クリシュナはそれが「見かけほど簡単ではない」と言います。
物理的に捨てても、心の中に怒りや恨み、執着があれば、座っていても勉強に集中できず、ぼんやりと一日を過ごすことになります。
アルジュナは森での12年間、ドゥルヨーダナへの怒りや王国の不条理を「瞑想(執着)」し続けてきました。
心の深い傷がある状態では、形だけサンニャーシーになっても、真の放棄は達成されません。
ですから、サンニャーサがどんなに素晴らしく見えても、多くの人にとってカルマ・ヨーガは、真のサンニャーサに至るための道を整える不可欠なステップです。
行いを通じて考えを浄化することが、やがて「知識を得たい」という純粋な願い[vividiṣā]へとつながっていくのです。
※「知る[vid]」という音が繰り返され、願望を表す接辞[sa]が加わり、「知ることを欲する」という意味になる。
