2021/02/08
न हि कश्चित् क्षणमपि जातु तिष्ठत्यकर्मकृत् ।
na hi kaścit kṣaṇamapi jātu tiṣṭhatyakarmakṛt |
कार्यते ह्यवशः कर्म सर्वः प्रकृतिजैर्गुणैः ॥३.५॥
kāryate hyavaśaḥ karma sarvaḥ prakṛtijairguṇaiḥ ||3.5||
実際、一瞬でさえ、行いすること無くいれる人は誰もいません
なぜならプラクルティから生まれたグナにより私達は皆、抵抗もできず行いをさせられているのです[3-5]
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現在、そして未来も、一瞬でさえ、行いせず存在出来る人はいません。
クリシュナでさえ話し、教える等様々な行いをしました。
インドでは「静かにしていること」は、何もしないでいる意味になるのですが、「静かにしていること」も行いです。
「~し続けること」が行いですから「静かにしていること」も行為です。
カルマの定義は幾つかあります。
例えば、自分の意志で為されたことは何であれカルマです。
自分の意志なく、瞼を自然に閉じる、これもカルマです。
一般的なカルマ定義は、動きの形にあるものです
[チャラナ・アートマカム カルマ]。
行いが、動くことなら、行いがないこと[ア・カルマ]は動きが無い事になり、それがナイシュカルミャになってしまいます。
自分は、動いていないと思っている人に「何かカルマをしていますか?」と聞いても答えません。
話すことがカルマになるのですから。
そのかわり、否定の意味で首を振る、これは行いになります。
「行いをしていないのですか?」
という質問に、彼が同意する意味で頷けば、それも行いをしていることになります。
全身は常に活動し、呼吸も動きで、考えることも動きです。
サンニャーシーのビクシャーさえも活動です。
その人に食べ物を与えず、紙に「ビクシャー」とだけ書いて手渡すなら、その人がどうするか見てみると分かるでしょう。
料理をする、歩く、沐浴する、全てカルマです。
どんな姿勢でも、座ることはカルマです。
では、いつ動きがなくなりますか?
「自分は動きがないものそのものだ」
と知る、まさにその時です。
ただ知識でのみア・カルマがあります。
そうでなければ、他にア・カルマはありません。
シュルティでは、死後も人は別の生を受け、さらなる行いが待ちうけていると言います。
熟睡時でさえも、生命維持に不可欠な呼吸、生理学的機能は働き続け行いがあります。
活動がないなら、断食(ファスト)をやめる(ブレイク)必要もなく、朝ごはん(ブレイクファスト)も要りません。