千葉県立 青葉の森公園近くの小さなヨガ教室

ギーターヨーガ

ヨガ 勉強会  個人レッスン・出張ヨガ 私について ブログ アクセス スケジュール・予約 お問い合わせ

【ギーター】第3章05番目の詩

न हि कश्चित् क्षणमपि जातु तिष्ठत्यकर्मकृत् ।

na hi kaścit kṣaṇamapi jātu tiṣṭhatyakarmakṛt |

कार्यते ह्यवशः कर्म सर्वः प्रकृतिजैर्गुणैः ॥३.५॥

kāryate hyavaśaḥ karma sarvaḥ prakṛtijairguṇaiḥ ||3.5||

実際、一瞬でさえ、行いをすることなくいれる人は、誰もいません。なぜなら、プラクルティから生まれた、(3つの)グナ (サットヴァ、ラジャス、タマス) によって、私たちは皆、抵抗もできず行いをさせられているのです。

-

人間は、若かろうが老いていようが、たとえ一瞬であっても行いをせずに存在することはできません。

それは肉体的な活動だけでなく、「静かに座っていること」さえも一つの行い(意志による行為)だからです。

クリシュナでさえ、教えたり、馬車を運転したりと、何らかの行いをしています。

人は存在している限り、常に行いをせずにはいられないのです。

現在、そして未来も、一瞬でさえ、行いせず存在出来る人はいません。

カルマの定義

カルマとは動きであり、生きている限り、呼吸や消化、思考を含め、それらを完全に止めることは不可能です。

「何もしていない」と主張するために頷くことさえ、すでに一つの行いだからです。

したがって、本当の意味でのアカルマやナイシュカルミャ[naiṣkarmya]は、物理的な停止によって得られるものではありません。

私の本質は、動きのない、不変の存在であるという知識によってのみ、行いの中にアカルマを見出すことができるのです。

熟睡中も生理機能という行いが続いているから、朝お腹が空きます。

そうでなければ、断食(ファスト)をやめる(ブレイク)必要はないでしょうし、朝ごはん(ブレイクファスト)もいらなくなってしまいます!

行いの原因

動きがカルマである以上、肉体を自分自身だと見なしている人は、一瞬たりとも行いから自由になることはできません。

人間は自らの意志で行っているつもりでも、実際には「プラクルティ」と呼ばれる世界の質の源から生じる見えない力に突き動かされています。

このプラクルティは、サットヴァ、ラジャス、タマスという3つ性質[guṇa]を持っており、私たちの考えや感情もその産物であるため、原因であるプラクルティの性質をそのまま受け継いでいます。

これは、金の性質がそこから作られたバングルにすべて受け継がれるのと同じように、私たちの思考や肉体が常に活動し、変化し続けるのは、その源であるプラクルティそのものが、常に動きや性質を持っているからに他なりません。

考えの性質

人間のアンタッカラナは、プラクルティから派生しているため、サットヴァ、ラジャス、タマスという3つの性質をすべて備えており、あらゆる行為はこの質の現れによって分類されます。

例えば、与えることにも3種類あります。

見返りを期待して投資するような与え方はタマスから生まれたものですし、プライドを保つために与えることは、ラジャスから生まれたものです。

なされなければならないので与えて、いったんしてしまうと忘れるような、与え方は、サットヴァから生まれます。

このように、3つの中にはっきりとした区別があります。

この宇宙の創造において、すべての生き物は内なる性質に駆り立てられてられ、物理的に行いを完全に止めることは不可能です。

それは、サンニャーシーであっても同様であり、食事や生活維持といった行いから逃れることはできません。

したがって、ナイシュカルミャとは、物理的に行いを放棄することではなく、「私は行い手である」という誤った観念を知識によって解消することを指します。

サンニャーサというライフスタイル[karma-saṃnyāsa]を選んでも、それは特定の義務が免除されるだけです。

真のサンニャーサ[sarva-karma-saṃnyāsa]とは、私は行い手ではないという事実を知ることなのです。

どちらの生き方があなたにとってふさわしいでしょう?

ラーガ・ドヴェーシャがあるなら、カルマ・ヨーギーになったほうがいいでしょう。

しかし、考え深く、かつ自己の知識の追求以外何も興味がないのであれば、その時にだけサンニャーシーになるべきです。

たとえそうでも、ナイシュカルミャはまさに、知識なのです。