
न हि कश्चित् क्षणमपि जातु तिष्ठत्यकर्मकृत् ।
na hi kaścit kṣaṇamapi jātu tiṣṭhatyakarmakṛt |
कार्यते ह्यवशः कर्म सर्वः प्रकृतिजैर्गुणैः ॥३.५॥
kāryate hyavaśaḥ karma sarvaḥ prakṛtijairguṇaiḥ ||3.5||
実際、一瞬でさえ、行いすること無くいれる人は誰もいません
なぜならプラクルティから生まれたグナにより私達は皆、抵抗もできず行いをさせられているのです[3-5]
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現在、そして未来も、一瞬でさえ、行いせず存在出来る人はいません。
クリシュナでさえ話し、教える等様々な行いをしました。
インドでは「静かにしていること」は、何もしないでいる意味になるのですが、「静かにしていること」も行いです。
「~し続けること」が行いですから「静かにしていること」も行為です。
カルマの定義は幾つかあります。
例えば、自分の意志で為されたことは何であれカルマです。
自分の意志なく、瞼を自然に閉じる、これもカルマです。
一般的なカルマ定義は、動きの形にあるものです
[チャラナ・アートマカム カルマ]。
行いが、動くことなら、行いがないこと[ア・カルマ]は動きが無い事になり、それがナイシュカルミャになってしまいます。
自分は、動いていないと思っている人に「何かカルマをしていますか?」と聞いても答えません。
話すことがカルマになるのですから。
そのかわり、否定の意味で首を振る、これは行いになります。
「行いをしていないのですか?」
という質問に、彼が同意する意味で頷けば、それも行いをしていることになります。
全身は常に活動し、呼吸も動きで、考えることも動きです。
サンニャーシーのビクシャーさえも活動です。
その人に食べ物を与えず、紙に「ビクシャー」とだけ書いて手渡すなら、その人がどうするか見てみると分かるでしょう。
料理をする、歩く、沐浴する、全てカルマです。
どんな姿勢でも、座ることはカルマです。
では、いつ動きがなくなりますか?
「自分は動きがないものそのものだ」
と知る、まさにその時です。
ただ知識でのみア・カルマがあります。
そうでなければ、他にア・カルマはありません。
シュルティでは、死後も人は別の生を受け、さらなる行いが待ちうけていると言います。
熟睡時でさえも、生命維持に不可欠な呼吸、生理学的機能は働き続け行いがあります。
活動がないなら、断食(ファスト)をやめる(ブレイク)必要もなく、朝ごはん(ブレイクファスト)も要りません。
プラクルティは、世界の物質の源に与えられた言葉で、サットヴァ、ラジャス、タマスという3つの性質[グナ]を持つプラクルティから考えも生まれています。
源[プラクルティ]は3つの質がある為、出来上がった結果の中にもその質はあります。
例えば、金は1つのバングルの源で、金には性質や重さがあり、金の重さがバングルの重さで、金の持つ色もバングルの色です。
金は錆びず、バングルも錆びません。
可鍛性や、強度を持つその源が金で、常にバングルは、金と同じ質、全てを持っているのです。
同様に考え[アンタハ・カラナ]はプラクルティから生まれ、サットヴァ、ラジャス、タマスという質があります。
それらの質が、それぞれある種の願望や表現を生み出します。
生み出された願望や表現は、それぞれの質によって分類されます。
例えば、”与える”にも3種類あり、見返りを期待し、投資するような与え方はタマスから生まれ、プライドを保つために与えることは、ラジャスから生まれ、為さなければならないので与え、一旦与えるなら、すぐに忘れる様な与え方はサットヴァから生まれます。
3つの中にはっきりとした区別があります。
欲望にも3種類の表現があります。
これらの欲望に駆り立てられ人は、行いをします。
全ての生き物は行いをし、それから逃れることは出来ません。
誰も、行いをせずにいられません。
ですから、行いの無いこと[ナイシュカルミャ]は達成することはありません。
ナイシュカルミャは、理解で”自分が行い手である”という観念から自由であると知ることです。
こうしてのみ、ナイシュカルミャ、いわゆるモークシャが得られます。
カルマ・サンニャーサを選んだとしてもサルヴァ・カルマ・サンニャーサを得たことにはならず、ある種の義務を免除されただけのことです。
もしラーガ・ドヴェーシャがあるなら、カルマ・ヨーギーになった方がいいでしょう。
しかし、考え深くかつ自己の知識の追求以外、何も興味がないのであればサンニャーサがいいです。
これは、意義ある生き方をしてきて、サンニャーサの準備が出来ていることを意味しています。
その時にだけ、サンニャーシーになるべきです。
