【ギーター】第3章6番目の詩
2021/02/22
कर्मेन्द्रियाणि संयम्य य आस्ते मनसा स्मरन् ।
इन्द्रियार्थान् विमूढात्मा मिथ्याचारः स उच्यते ॥३.६॥
karmendriyāṇi saṃyamya ya āste manasā smaran |
indriyārthān vimūḍhātmā mithyācāraḥ sa ucyate ||3.6||
行動器官を制御して座っていても
考えが感覚の対象を忘れられない人は
惑わされていて、間違った振る舞いをしている人だと言われます[6]
ー
行いが無いこと[ナイシュカルミャ]を
アートマーの本質であると理解しない人は
自分を行い手であると勘違いします。
行い手として、意志の力で行いを手放す人
その生き方は間違っています。
ミッテャー・アーチャーラとは「間違った生き方」です。
アートマーを知らない人は
問題や不備などを抱えたサムサーリーです。
行いを手放したとしても
感覚の対象にこだわらざるを得ません。
行動器官を制御し、行いをしていない、と考えます。
話すなどの行いをせず、ただ座っています。
自分自身を満ち足りたもの
[アーナンダ]と知らないので
その人は感覚の対象のことを
否が応でも考えてしまいます。
ありとあらゆる対象物に必ず執着します。
この様な人を、惑わされた人、
困惑した人[ヴィムーダートマー]
とクリシュナは呼びました。
振る舞い自体が間違っています。
常に感覚の対象について考えているので
決して行いがない状態ではありません。
自分自身の知識無く
行いが無いことはあり得ません。
この人が対象物のことを考えていない
としたらどうでしょう?
アートマーを知らない限り
考える対象物は他に無いので
それらを考えざるを得ないのです。
もしアートマーが理解されているなら問題はありません。
その人には既に行いがありません。
ですからアートマーの知識を
モークシャと言うのです。
この知識無しに行いをしないことで
ナイシュカルミャを得ようとする人は
間違った生き方をするのです。
その人はアートマーの知識を満喫する代りに
過去に経験した対象や
未だ体験していない起こりうる経験を
深く考えることでしょう。
それをシャンカラは、罪深いこと[パーパーチャーラ]
とさえ言う様に、この種の生き方は間違っていると
クリシュナはアルジュナに伝えました。