
कर्मेन्द्रियाणि संयम्य य आस्ते मनसा स्मरन् ।
इन्द्रियार्थान् विमूढात्मा मिथ्याचारः स उच्यते ॥३.६॥
karmendriyāṇi saṃyamya ya āste manasā smaran |
indriyārthān vimūḍhātmā mithyācāraḥ sa ucyate ||3.6||
行動器官を制御して座っていても、考えが感覚の対象を忘れられない人は、惑わされていて、間違った振る舞いをしている人だといわれます。
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「私は行い手である」という観念を抱えたまま、意志の力だけで行為を無理に抑え込もうとする人の姿が描かれています。
身体(行動器官)を動かさず座っていても、内面では感覚の対象を追い求めているため、その生き方は「間違った生き方[mithyā-ācāra]」となります。
自分自身を「満ち足りたもの[ānanda]」として知らない限り、考えは常に外側の対象を求めてさまよい、真の自分自身[naiṣkarmya]に至ることはありません。
これをクリシュナは、理知が混乱した「惑わされた人[vimūḍha-ātmā]」と呼びました。
◎あなたは自分自身の知識なしに行い無くいれますか?
アートマーについての知識がない限り、考えは構造上、感覚対象を考えざるを得ません。
ナイシュカルミャとは、行為を物理的に止めることではなく、アートマーこそが自分であると理解する知識[mokṣa]によってのみ達成されます。
この知識がないまま形だけ真似ることは、シャンカラが「罪深いこと[pāpa-ācāra]」と呼んだように、本来の目的から遠ざかる行為となります。
