2021/03/01
यस्त्विन्द्रियाणि मनसा नियम्यारभतेऽर्जुन ।
कर्मेन्द्रियैः कर्मयोगमसक्तः स विशिष्यते ॥३.७॥
yastvindriyāṇi manasā niyamyārabhate:'rjuna |
karmendriyaiḥ karmayogamasaktaḥ sa viśiṣyate ||3.7||
アルジュナよ。一方、考え(識別)によって感覚器官を制御しながら、執着を手放し
行動器官を使い、カルマ・ヨーガを選択する人はずっと優れている[7]
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自分の感覚の追求を制御できる人は、見極め[ヴィヴェーカ]を持ち、制御は考えを通してのみなされます。
この詩で、マナスは知性[ブッディ]という意味で使われてます。
行動器官と、感覚の追求を思いのまま指揮します。
行いの結果[カルマ・パラ]に執着がなくなり、カルマ・ヨーガの生活を始め[アーラバテー]選びます。
カルマ・ヨーガとは、ヨーガ、手段[サーダナ]としてカルマをすることです。
行為とその結果に関するはっきりとした考え方ですから、カルマ・ヨーガを持つことだけできますが、カルマ・ヨーガをすることはできません。
クリシュナが描写した人は、話したり、歩いたり、何であれ為すべきことを適切な考え方でします。
ヴァイディカ・カルマであれ、ラウキカ・カルマであれ、カルマ・ヨーガの態度でカルマをする時ラーガ・ドヴェーシャを満たす為にするのではなく、それを中和する為に行います。
モークシャである知識を得るための考えの浄化の為なのです。
人は一般的に、安心や喜びを得る為に儀式や祈りをします。
これはラーガ・ドヴェーシャを満たすことに他なりません。
これについて全く問題はないのですが、ラーガ・ドヴェーシャを満たす為だけ、ということを知っておくべきです。
問題の解決の為に神に祈りを捧げることは、確かに適切なことです。
自分が出来ることを全てやり尽くし、それで十分ではない時、神に祈願したらいいでしょう。
ここで理解されるべきことは、たとえヴェーダで規定された祈りでさえも、この世、あの世での安全や喜びの為にあるということです。
あるいは、祈りは、考えをきれいに整えることで、自分自身の知識[モークシャ]の為の手段[ヨーガ]になり得ます。