2021/04/05
カルマが、人を自由にする直接的な道具でなくても、カルマ・ヨーガの態度で行えば、人が自由になる間接的道具となり、好き嫌いのしがらみ[ラーガ・ドヴェーシャ]から解放されます。
カルマが道具[サーダナ]になります。
カルマが祈り・儀式[ヤッニャ]としてヨーガとなり、整った考え[シュッダ・アンタ・カラナ]を得て、モークシャである知識を得ます。
次の詩から始まり16番目の詩まで、クリシュナはモークシャに導く手段としてカルマについて話します。
यज्ञार्थात्कर्मणोऽन्यत्र लोकोऽयं कर्मबन्धनः ।
तदर्थं कर्म कौन्तेय मुक्तसङ्गः समाचर ॥३.९॥
yajñārthātkarmaṇo'nyatra loko'yaṃ karmabandhanaḥ |
tadarthaṃ karma kaunteya muktasaṅgaḥ samācara ||3.9||
ヤッニャ目的の行い以外、その人はカルマによって束縛されます
カウンテーヤ、執着から離れ、その目的で行いをしなさい[9]
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ヤッニャは供物を捧げる儀式という意味です。
ヴェーダにおいてとても重要な言葉です。
広い意味で言うと、人生においてイーシュワラの為に捧げるあらゆる行為も意味します。
与えるという行いは、与える人、与えられるもの、受け取る人があり、儀式として捧げることにおいては、捧げる場所、祭壇が加わります。
儀式で「私は、感謝と敬意を持って礼を捧げます」という意味の、スヴァーハーやナマハという言葉があります。
「シヴァ神に、感謝と敬意を持って礼を捧げます[ナマッシヴァーヤ]」という様な祈りを捧げます。
これが繰り返されることがジャパ・ヤッニャです。
食べ物は、捧げものです。
消化器官を消化の火として思い、その火に捧げられる食べ物は捧げ物、この捧げる儀式の祭壇(場所)は、消化のプロセスであるプラーナです。
食べる前に、プラーナという姿の神に食べ物が捧げられるのです。
現れたものに、神と分かれているものは1つとして無く、神は意識的な存在[チェータナ]としてあります。
意識的な存在の中に、消化という動きがあり、捧げられた食べ物も、神と離れてはいません。
ギーター15の章と4章24番の詩は、この様な理由から食べる前に唱えられます。
食べている食物も、それを食べている人も、全てが神であることを述べていますから。
食べることは、捧げることなのです。