2021/06/07
यज्ञार्थात्कर्मणोऽन्यत्र लोकोऽयं कर्मबन्धनः ।
तदर्थं कर्म कौन्तेय मुक्तसङ्गः समाचर ॥३.९॥
yajñārthātkarmaṇo'nyatra loko'yaṃ karmabandhanaḥ |
tadarthaṃ karma kaunteya muktasaṅgaḥ samācara ||3.9||
ヤッニャ目的の行い以外、その人はカルマによって束縛されます
カウンテーヤ、執着から離れ、その目的で行いをしなさい[9]
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クリシュナは、神を理解せずに行いをするなら、カルマが人を束縛すると言いました。
ダルマをイーシュワラと見なすことなく、ラーガ・ドヴェーシャから行われるなら束縛になります。
人の好き嫌いの為になされる儀式[カームミャ・カルマ]から、人はプンニャとパーパという結果だけを得ます。
ダルマとアダルマを視野においてカームミャ・カルマがなされたら、パーパを起こすことはありません。
しかしカルマが、なだめること[ヤッニャ]や、アンタハ・カラナ・シュッディの為になされる時、行いはヨーガ、モークシャの手段です。
カルマが、ヤッニャでなければ、信仰も、祈りも、ラーガ・ドヴェーシャを満たすカームミャ・カルマです。
何も問題はありませんが、カームミャ・カルマは束縛になると知っておくべきです。
なだめること[ヤッニャ]として、神の為に正しくカルマを行いなさい、とクリシュナは言いました。
アルジュナは、王国が欲しいというラーガ・ドヴェーシャは手放しているのに、なぜ戦う必要があるのでしょう?
クリシュナの答えは、アルジュナは、すべきことをしなくてはならないということでした。
ラーガ・ドヴェーシャが、ダルマに従わなければならないのです。
しなければいけないことを、したく無くても、それをした方が良い、とクリシュナは言っています。
こうして行いがヨーガになるのです。
クリシュナは、ニャーニーではなく、カルマ・ヨーギーについてここでは話しています。
自分が行い手ではないということを理解しているニャーニーは何もしなくても大丈夫なのです。
一方カルマ・ヨーギーは、自分が行い手であると考えますから、知識が得られるまで行いを続けます。