2021/08/16
यज्ञशिष्टाशिनः सन्तो मुच्यन्ते सर्वकिल्बिषैः ।
भुञ्जते ते त्वघं पापा ये पचन्त्यात्मकारणात् ॥३.१३॥
yajñaśiṣṭāśinaḥ santo mucyante sarvakilbiṣaiḥ |
bhuñjate te tvaghaṃ pāpā ye pacantyātmakāraṇāt ||3.13||
まず神に食事を捧げてから食べる人は、不純さから解放されます
一方、自分のためだけに料理をする人は、罪深い人で罪[パーパ]を食べます[13]
-
この詩の中でカルマ・ヨーガはヤッニャとして紹介されています。
神[イーシュワラ]は、宇宙の様々な力や基本元素として認識されるべきなのですから、個々に見られるこれらの力は、神々[デーヴァター]またはデーヴァと呼ばれます。
私達がデーヴァ達をなだめ安らげますように、そしてデーヴァ達が、私達を祝福しますようにと言われました。
これは、私がすべきことをするということを意味しています。
イーシュワラの外側の物など何もないのですから「自然の力は単なる力で、それは生き物ではない」などと見なされてはいません。
夢を見ている時ですら、全ては意識[チェータナ・ヴァストゥ]であるイーシュワラの中にあります。
夢の中で見る山は、生きていない物[ジャダ]で、太陽やその光線も、見られるものは全てジャダで、チェータナではありません。
しかし、生きていない物と意識的な物の違い[ジャダ・チェータナ・ベーダ]は、夢の主体(夢を見る人)に知覚されるものの枠組みの中だけにあります。
夢を見ている人からしたら、夢を見る人の外側に世界などありません。
しかし、夢を見る人が、気づいている者(起きている人)であれば、夢の世界は、夢を見るその人から離れてはいません。
その人は、夢の世界の作者[ニミッタ・カーラナ]でもあり、その材料[ウパーダーナ・カーラナ]でもあるのですから。
夢を見る人の視点から言うと、生きている、生きていない、などは無く、全てのものがただ夢を見る人です。
同様に、イーシュワラの視点から、宇宙の力はイーシュワラから離れていないものとして認識されます。
イーシュワラの外側の物などないのですから、それらは単にジャダとして捉えられず、イーシュワラの視点からは、それらは全てデーヴァターなのです。
太陽も、空気、火、水、地も全てデーヴァター。
イーシュワラをこの様に認識し、デーヴァターの姿としての側面を理解し、人は様々な儀式や祈りという行いをします。
ヴェーダの宇宙観の一部として、その中に定められている、日々の儀式[ニッテャ・カルマ]や、特別な機会になされる儀式[ナイミッティカ・カルマ]、様々なすべき行いがあり、それらは全てを放棄する[サンニャーサ]をとるまで、例外なくなされるべきなのです。