कर्म ब्रह्मोद्भवं विद्धि ब्रह्माक्षरसमुद्भवम् ।
तस्मात् सर्वगतं ब्रह्म नित्यं यज्ञे प्रतिष्ठितम् ॥३.१५॥
karma brahmodbhavaṃ viddhi brahmākṣarasamudbhavam |
tasmāt sarvagataṃ brahma nityaṃ yajñe pratiṣṭhitam ||3.15||
カルマはヴェーダから、ヴェーダは滅びることのないもの[イーシュワラ]から
生まれたものであることをあなたが理解しますように
ですから、全てに満ちるヴェーダは、いつもヤッニャの中に宿っています
-
存在とは、現在、過去、未来において自立してとどまっているもの。
意識とは、知識の本来の姿。
存在が意識で、意識が存在ですから、全ての知識は、意識的な存在(生きもの)の中、意識である存在の中にあります。
無知ゆえに、私はそのことを知りません。
無知が知識を隠します。
ある知識が集められる時、それは 無知をこすり落としているだけです。
無知をこすり落とすことを、知識を集めると私達は言っています。
自分自身(の無知)に関してのみ、完全にこすり落とすことが出来ます。
なぜならそれは、部分の無い全体を語っているのですから。
どの様な部分も部分を持ち、限りなく続くのが体験上の世界の本質です。
しかしアートマーは、部分の無い全体ですから、無知を完全に落とすことが出来ます。
その意識的なもの、その生きものは、全ての知識を持ち、その知識が無知[ア・ニャーナ]に隠されています。
無知ゆえに人々は、様々な問題にふけっている制限された生き物、サムサーリーなのです。
しかしながら知識はいつもあり、それは決して作られてはいません。
無知も作られてはいません。
作られるものは、間違い、意見、信念、理屈の通らない発言、知識を憶測した形といったものばかりです。
人は、知識の道具[プラマーナ]を使わず、神について書くことができます。
間違いは意図的に作られるのでないにしても、間違いは、制限のある一定の知性から生まれます。
ところが知識は決して生まれてはいませんし、決して作られてはいません。