कर्म ब्रह्मोद्भवं विद्धि ब्रह्माक्षरसमुद्भवम् ।
तस्मात् सर्वगतं ब्रह्म नित्यं यज्ञे प्रतिष्ठितम् ॥३.१५॥
karma brahmodbhavaṃ viddhi brahmākṣarasamudbhavam |
tasmāt sarvagataṃ brahma nityaṃ yajñe pratiṣṭhitam ||3.15||
カルマはヴェーダから、ヴェーダは滅びることのないもの[イーシュワラ]から
生まれたものであることをあなたが理解しますように
ですから、全てに満ちるヴェーダは、いつもヤッニャの中に宿っています
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ヴェーダは普遍の摂理、そしてそれを支える永遠というものについて教えている知識体で、作者、創始者などはいません。
ヴェーダで教えられているこの世界、この宇宙の在り方を「永遠の[サナータナ]・秩序[ダルマ]」と呼びます。
イコール、それは神[イーシュワラ]です。
研究に没頭してきた学者が、一般人の見過ごす、そこにある事実を発見する様に、祈りと規律的生活に専念し続けたリシが、ヴェーダのマントラを発見しました(=啓示)。
ヴェーダはリシによって聞かれたもの「シュルティ(聞かれたもの)」とも呼ばれます。
ヴェーダを歴史上のものではなく、啓示されたものとして私達は受け入れます。
「歴史からみたヴェーダ」という議論は、ある特定の時代や場所、人種に限られていますから伝統では認めらていません。
一定の知性から生まれるものは、その知性の限界と同じく限界があるのです。
啓示された知識体であるヴェーダは、人が知識を得るための道具[プラマーナ]として働きます。
ヴェーダの言葉がプラマーナ[シャブダ・プラマーナ]で、間接の知識[パロークシャ・ニャーナ]と、直の知識[アパロークシャ・ニャーナ]があります。
天国や、デーヴァター、そのデーヴァターを呼び起こす儀式、それらのプラマーナに信頼[シュラッダー]を持つなら、その知識は間接の知識です。
しかしこれらは信じていることにすぎません。
デーヴァターを呼び起こす儀式をして、望みの結果を得る時、儀式が働くことを実証したと私達は理解します。
科学的に実証されないホメオパシー(類似したものは類似したものを治すという法則の治療法)や、古代の医学の体系は、間接の知識の別の例えです。
何かが働く唯一の証明は、それが働くことだけです。
ヴェーダの儀式について、私達に分かることは、統計上で証明されることとして儀式は働くということで、これは、あらゆる聖典にも言えることです。
アフリカのある部族が、雨を降らせるためのダンスをし、雨が降るなら、その儀式は働くと私達は言います。
私達の祈りを理解するように、アフリカの部族のダンスも、私の早口の話も、全知である神は意図を掴みます。
神には全てが意味深いのです。
しかし、ヴェーダがあるがまま(事実)について話す時、それは憶測ではありません。
ヴェーダは、既に明らかな存在である、わたし自身について話します。
その存在について混乱があるなら、その混乱の解決は直の知識、直接の知識です。
直接の知識ですから、ヴェーダと、ヴェーダと同じことを言う啓示された他の知識体の間に比較はあり得ません。
啓示された知識体が「自分自身は全体である」と言うなら、ヴェーダと同じことを言っています。
自分自身のリアリティーという知識、他のどの分野にも属さないこの知識を、私達はヴェーダーンタと呼びます。