यस्त्वात्मरतिरेव स्यादात्मतृप्तश्च मानवः ।
आत्मन्येव च सन्तुष्टस्तस्य कार्यं न विद्यते ॥३.१७॥
yastvātmaratireva syādātmatṛptaśca mānavaḥ |
ātmanyeva ca santuṣṭastasya kāryaṃ na vidyate ||3.17||
しかしながら自分自身の中に喜びがある人、自分自身に満足し、自分自身の中に満たされている人
その人にとって成すべき事というのがありません[17]
-
ビジネスの成功、家庭を得るためなどのカルマは、モークシャの手段にはなり得ません。
そしてカルマ・ヨーガもモークシャの直接の手段ではないとクリシュナは既に言ってきました。
カルマ・ヨーガはモークシャのための手段ではなく、それは、考えをきれいにする[アンタッ・カラナ・シュッディ]のための手段です。
「しなければならない[カルタッヴャ]」が何も無い、という意味であるモークシャ。
その唯一の手段が知識[ニャーナ]です。
知識を得たなら、自分以外の何かを得ようというセンスはもう無いという意味で、何もすることはありません。
知識が行い手を破壊し、どの様なカルマにも束縛されていないのでカルタッヴャがありません。
行い手なしに行いはありません。
知識は行い手であるという観念を完全に破壊します。
行い手として話しかけられ反応するのは、 自分自身を行い手であるとしている人だけで、行い手でない人は反応しません。
この詩の「しかしながら[トゥ]」は、行い手から行い手で無い人をはっきり区別するための言葉で、行い手では無い人のことをサーンキャとシャンカラは呼び、自分自身の知識を持つ人[サンニャーシー]を意味します。
第2章ではスティタ・プラッニャーと言われました。
その人は、わたし[アートマー]についての疑い、間違い、曖昧さはありません。
自分自身でいて、自分自身の中に幸せで、アートマーの知識にしっかりと留まっています。
不完全で、限られた、悲しい、罪深い人[サムサーリー]とアートマーを見る人ではありません。
サムサーリーは、自分自身の中に幸せであることが出来ず、自分自身以外の何かを求め、ほんの小さな幸せを得るために、たくみに世界を操作したり、自分の考えを操作したりしなければなりません。
体験する人[ボーギー]は、世界は楽しむべき物として見ていて、望ましい状況を作るために、世界や状況を操作することに取り組む人です(外側の探求)。
作られたその状況は、その人を喜ばせますがほんの束の間ですから、また操作する工程が始まります。
一方ヨーギーは、ボーギーのように世界を操作せず、喜ばしい考えの状況は、直接考えに作り出すことができると主張し、自分の考えだけに関心を持ち、考えを操作することに取り組みます(内側の探求)。
ローギーという人もいます。
ローギーは、病んでいて世界を操作することもできないし、考えの操作もできない人です。
病気の痛みのために、心地よくご機嫌な気分の中に自分自身を保つことが出来ないばかりではなく、世界を操作するに耐えるほど健康でもありません。