千葉県立 青葉の森公園近くの小さなヨガ教室

ギーターヨーガ

ヨガ 勉強会  個人レッスン・出張ヨガ 私について ブログ アクセス スケジュール・予約 お問い合わせ

【ギーター】第3章20番目の詩③

कर्मणैव हि संसिद्धिमास्थिता जनकादयः ।

karmaṇaiva hi saṃsiddhimāsthitā janakādayaḥ |

लोकसङ्ग्रहमेवापि सम्पश्यन्कर्तुमर्हसि ॥३.२०॥

lokasaṅgrahamevāpi sampaśyankartumarhasi ||3.20||

実際行いによってのみ、ジャナカ王や他の人は自由を得ました

また適切でない生き方に陥いることから人々を守るという

望ましい状況をだけを見て、あなたは行いをしなければなりません[20]

-

ジャナカ王の様な賢者は知識を得たのに、何故カルマをし続けるべきなのでしょうか?

それは、今の生まれの要因である、過去のカルマの結果[プラーラブダ]に従うからです。

ジャナカ王は行いを手放していますが、傍から見たらカルマを続けていました。

知識が得られると全ての行いは自発的で、起こるべきことは起こり、誰も何もそれを止めることは出来ません。

ジャナカ王が王様であるべきなら、王様ですし、サンニャーシーの人生を送るべきなら、 彼はそうしていたでしょう。

全ては、その人のプラーラブダに何が蓄えられているかで決まります。

カルマ・ヨーガを生きるか、ニャーナヨーガを生きるのかも、その人のプラーラブダに応じて決まります。

その人が、カルマやラーガ・ドヴェーシャに縛られていないなら「カルマをする、しない」がありません。

自分自身の真実である知識に満たされているので、解放への願望[モークシャ]でさえもありません。

行い手がいないので、賢者がすることは事実上何もありません。

しかし、何でも出来る人というわけでもありません。

することは、起こることに従い、それ自体が今生の結果を招いたプラーラブタによって統括されています。

プラーラブダ・カルマは、人間が持つ自由意思を伴うので、それを変えたり、改善したり、逆らったりと、自由意思がプラーラブダ・カルマに干渉することが出来ます。

プラーラブダ・カルマが自由意思を伴うならば、全ての結果は、プラーラブダと自由意志(他者の自由意志も含む)に基づいています。

もたらされる状況が、プラーラブなのか?自由意志なのか?などを知る術は私達にはありません。

しかし、自分自身の知識の中に、自由意思はありませんから、プラーラブダのみが残ります。

教えることがプラーラブダであれば、教えますし、静かに座っているのがプラーラブダなら、それをします。

王国を統治しなければならないなら、ジャナカ王がのように王国を統治します。

クリシュナは、アルジュナのプラーラブダはこの戦争で戦うことと知っていて、カルマをするように言いました。

アルジュナがドゥルヨーダナと戦うのを決めたわけでは無く、彼はこの戦争をしたくなかったのですが、彼のプラーラブダによって、運ばれたのでした。

アルジュナは役割として、この特別な状況の真っ只中にいました。

賢者であるジャナカ王は、彼のプラーラブダで役割をし続けましたが、もし賢者でなかったら、彼はカルマ・ヨーガをしていたでしょう。

クリシュナが指摘する要点は、人はすべきことから逃げることではなく、すべきことをして智慧を成し遂げる、ということでした。

いわゆる賢者が「自分は賢者であるからカルマをしない」と言うなら、その人は自分自身を行い手とみなしていますから、カルマによって束縛されています。

カルマによって束縛されるのなら、明らかに賢者ではありません!

「アートマーとは行い手ではない」という理解、この智慧を持つ人は、カルマをする事にも、しない事にもプレッシャーなどなく、役割や任務を演じることが出来るだけです。

賢者は、置かれた状況を見て、すべきことをすることが出来る人ということです。