कर्मणैव हि संसिद्धिमास्थिता जनकादयः ।
karmaṇaiva hi saṃsiddhimāsthitā janakādayaḥ |
लोकसङ्ग्रहमेवापि सम्पश्यन्कर्तुमर्हसि ॥३.२०॥
lokasaṅgrahamevāpi sampaśyankartumarhasi ||3.20||
実際行いによってのみ、ジャナカ王や他の人は自由を得ました
また適切でない生き方に陥いることから人々を守るという
望ましい状況をだけを見て、あなたは行いをしなければなりません[20]
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ジャナカ王の様な賢者は知識を得たのに、何故カルマをし続けるべきなのでしょうか?
それは、今の生まれの要因である、過去のカルマの結果[プラーラブダ]に従うからです。
ジャナカ王は行いを手放していますが、傍から見たらカルマを続けていました。
知識が得られると全ての行いは自発的で、起こるべきことは起こり、誰も何もそれを止めることは出来ません。
ジャナカ王が王様であるべきなら、王様ですし、サンニャーシーの人生を送るべきなら、 彼はそうしていたでしょう。
全ては、その人のプラーラブダに何が蓄えられているかで決まります。
カルマ・ヨーガを生きるか、ニャーナヨーガを生きるのかも、その人のプラーラブダに応じて決まります。
その人が、カルマやラーガ・ドヴェーシャに縛られていないなら「カルマをする、しない」がありません。
自分自身の真実である知識に満たされているので、解放への願望[モークシャ]でさえもありません。
行い手がいないので、賢者がすることは事実上何もありません。
しかし、何でも出来る人というわけでもありません。
することは、起こることに従い、それ自体が今生の結果を招いたプラーラブタによって統括されています。
プラーラブダ・カルマは、人間が持つ自由意思を伴うので、それを変えたり、改善したり、逆らったりと、自由意思がプラーラブダ・カルマに干渉することが出来ます。
プラーラブダ・カルマが自由意思を伴うならば、全ての結果は、プラーラブダと自由意志(他者の自由意志も含む)に基づいています。
もたらされる状況が、プラーラブなのか?自由意志なのか?などを知る術は私達にはありません。
しかし、自分自身の知識の中に、自由意思はありませんから、プラーラブダのみが残ります。
教えることがプラーラブダであれば、教えますし、静かに座っているのがプラーラブダなら、それをします。
王国を統治しなければならないなら、ジャナカ王がのように王国を統治します。
クリシュナは、アルジュナのプラーラブダはこの戦争で戦うことと知っていて、カルマをするように言いました。
アルジュナがドゥルヨーダナと戦うのを決めたわけでは無く、彼はこの戦争をしたくなかったのですが、彼のプラーラブダによって、運ばれたのでした。
アルジュナは役割として、この特別な状況の真っ只中にいました。
賢者であるジャナカ王は、彼のプラーラブダで役割をし続けましたが、もし賢者でなかったら、彼はカルマ・ヨーガをしていたでしょう。
クリシュナが指摘する要点は、人はすべきことから逃げることではなく、すべきことをして智慧を成し遂げる、ということでした。
いわゆる賢者が「自分は賢者であるからカルマをしない」と言うなら、その人は自分自身を行い手とみなしていますから、カルマによって束縛されています。
カルマによって束縛されるのなら、明らかに賢者ではありません!
「アートマーとは行い手ではない」という理解、この智慧を持つ人は、カルマをする事にも、しない事にもプレッシャーなどなく、役割や任務を演じることが出来るだけです。
賢者は、置かれた状況を見て、すべきことをすることが出来る人ということです。