कर्मणैव हि संसिद्धिमास्थिता जनकादयः ।
karmaṇaiva hi saṃsiddhimāsthitā janakādayaḥ |
लोकसङ्ग्रहमेवापि सम्पश्यन्कर्तुमर्हसि ॥३.२०॥
lokasaṅgrahamevāpi sampaśyankartumarhasi ||3.20||
実際行いによってのみ、ジャナカ王や他の人は自由を得ました
また適切でない生き方に陥いることから人々を守るという
望ましい状況をだけを見て、あなたは行いをしなければなりません[20]
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アルジュナは、リーダーをやりたいとか、やりたくないに関わらずリーダーでした。
自分はリーダーでないと思っていたとしても、人々はそう見ていましたから、アルジュナはリーダーとして期待されていることをしなければなりませんでした。
リーダーには3つのタイプがいます。
1つ目のタイプは、その時の情勢に応じ、より有利な側につこうとする態度を取るリーダーです。
お寺や教会などの共同体のリーダーは、このタイプである傾向があり、その中で成功している人が表に立ちます。
しかし、他の人もリーダーになりたがるので、多くの問題が避けられません。
この日和見主義者が、権力を行使する場合は、たいてい自己満足か、お金への関心からです。
一般的な社会は、このような人々に率いられています。
もう1つのタイプのリーダーは、危険ですらある理想主義者です。
日和見主義者は自分のエゴ以外の理想などはなく、風に吹かれるが如く進み、より有利な側に回るので、政党を変えたもします。
一方、理想主義者は権力への幻想ではなく「世の中は自分が解決しなければならない問題に満ちている」と考えるので、政治や経済や宗教など組織をその人は持ちます。
例えば、ある宗教のリーダーは、自分達だけが全てを知っていて、それ以外の人は、私達が救わなければならない異教徒である、と考える傾向があります。
理想主義者は、自分を通してのみ解決策があり得ると考えるので、社会にとって本当に危険です。
「私の国は、最も素晴らしい国」「私の文化は最も素晴らしい文化」「私の宗教は最も優れた宗教」「私の宗教組織、経済組織が唯一の解決策」といった議論をするような共産主義者、テロリスト、国家主義者は全て理想主義者です。
理想主義者は更に多くの人々を、その考え方に転向させます。
全身全霊で演説するので、その自信に満ち溢れた姿が、騙されやすい人々を洗脳していきます。
理想のために自分自身を売ってしまった人なので、死ぬ準備も出来ています。
例えば、ヒトラーの「純血」理論は、全くの理想主義で、多くの人々を残虐に破壊しました。
自分こそが世界を守り、統括するために生まれた人であり、アーリヤ民族の人々はより優れていると、本当に信じていました。
世界の歴史を見ても、理想主義者がいることで、戦争と膨大な破壊があったことが分かります。
3つ目のタイプのリーダーは、導きたいという目的などなく、人々に期待され導く人です。
真実に従って生きるので、常に自分自身の考え方を替える準備をして生きています。
自分がリーダーであることを、自覚していないかもしれません。
自分がやりたいかどうかでななくリーダーになる人、アルジュナはこのタイプのリーダーでした。
アルジュナは、その時代の優れた射手で、新しい流行を作る人、模範を示す人と考えられてたので、問題から立ち去る様な人ではあり得ませんでした。
アルジュナの置かれた状況は、リーダーとして、人々に尊敬され、彼は適切な模範を示さねばなりませんでした。
もしアルジュナが間違ったことをするなら、人々はそれに続きますから、自分がニャーニーだとアルジュナが考えたとしてでさえ、彼は人々を守るために、カルマをしなければなりませんでした。
これが彼の置かれた状況、プラーラブダでした。
アルジュナにとってはリーダーとは、すべきことでしたから、彼がカルマ・ヨーギーなら、世界を守ることがカルマ・ヨーガです。
「世界が守られねばならない」のは、 その状況にアルジュナがいたからです。
もし、アルジュナがそこにいなければ、他の誰かがいただけで、そこには選択はありません。
アルジュナは、パーンドゥの息子であることを選んだわけではなく、意図せず王族に生まれたので、すべきことがありました。
「ニャーニーでも、カルマ・ヨーギーでも、今はカルマをなすべき状況で、これは知識に反してはいません。なぜなら、あなたは行い手ではないのですから。」とクリシュナは言いました。
カルターではないことを知っていても、カルマは行うことが出来ます。
別の見方をするなら、行いをしても、モークシャを得ることはできないので、カルマは知識に対立しないし、知識のための道具でもありません。
ヴィヴェーカが無いなら、カルマに束縛されますが、カルマをヨーガにするなら、行いは、考えをきれいにするための道具になり得ます。
次の詩で、アルジュナが義務をすべきである理由を、クリシュナは述べました。