तत्त्ववित्तु महाबाहो गुणकर्मविभागयोः ।
tattvavittu mahābāho guṇakarmavibhāgayoḥ |
गुणा गुणेषु वर्तन्त इति मत्वा न सज्जते ॥३.२८॥
guṇā guṇeṣu vartanta iti matvā na sajjate ||3.28||
ところが、真実の知るマハーバーフよ!
(私と)グナ、(私と)カルマの違いを知る人は
グナが、グナの対象物だけに従事すると知るので、束縛されません
-
この詩でクリシュナは、ニャーニーと、前の詩で述べられたア・ニャーニーを対比します。
無知な人は、体・考え・感覚器官の集合物[カーリヤ・カラナ・サンガータ]を自分とし、その2つを識別しません。
この識別不足は、個人(個性)が現れ、人をあたかもユニークにし、違いを作り出します。
一方、ニャーニーは、カーリヤ・カラナ・サンガータを自分としながらも、自分自身をカーリヤ・カラナ・サンガータとしません。
カーリヤ・カラナ・サンガータを、自分としないのなら、話す、見る、聞く、考えるなど、行いは出来ませんから、ニャーニー は、当然アハンカーラを持ちます。
ここでは、カーリヤ・カラナ・サンガータ・アートマーが、アハンカーラと呼ばれます。
ニャーニーとア・ニャーニー両方が、アハンカーラを持ち、ニャーニーは、アハンカーラを役割として、道具として使うのに対し、ア・ニャーニーは、アハンカーラーを自分としますから、サムサーラがあります。
サムサーラは、「なろう」とする生き方、それにより生死のサイクルがあり、この見解が宇宙を廻すのです。
自分自身は、カーリヤ・カラナ・サンガータ・アートマーという見解から、様々な個人があります。
こうして「まるで」違いがあり、「まるで」二元性[ドヴァイタ]があります。
シュルティは、ドヴァイタがあるのではなく、「まるで」二元性がある[ドヴァイタム イヴァ バヴァティ]と言います。
この「まるで」二元性があるところには、死[ムルッテュ]があり、時間があり、サムサーラがあります。
ニャーニーは、この詩でタット・トヴァ・ヴィトと言われました。
「トヴァ」という語尾を名詞に付加し、名詞に抽象的な概念、その本質の意味をもたらします。
例えば、1つのポットの[ガタッスャ]真実、本質[タットヴァ]は、ガタッ・トヴァです。
英語では、potness、この「ness」という語尾が同じ意味で使われます。
「あれ[タット]」は、代名詞の1つで、その意味通り、あらゆる物の代わりができますから、タット・トヴァは、ありとあらゆる物事の真実、本質[タッスャ バーバハ]を意味します。
自分自身や世界、そして神の真実を知る人が、タット・トヴァ・ヴィトと呼ばれます。
この詩でタット・トヴァ・ヴィトは、移り変わる物[グナ]とアートマーの識別、そしてカルマとアートマーの識別、この2つを識別できる人です[グナ・カルマ・ヴィバーガ]。
識別[ヴィバーガ]は、カーリヤ・カラナ・サンガータは、道具[カラナ]であり、アートマーではないという識別、私は、感覚器官や考え[カラナ]でも、肉体[カーリヤ]でもありません。
考えや感覚は、それ自身で行いをしますが、それらは道具[カラナ]です。
アートマーは、道具ではなく、 それは自分自身、主体、行い手の本質ですから、主体の本質と、道具の識別がされなければなりません。
主体に扱われる道具は、主体の手の内にあり、私は体を操作し、考えや感覚を操ります。
スプーンやフォークを自分としないのと同様、主体は操作されるものと見なしません。
私が手にフォークを持っている事は、フォークが私であると言う意味ではなく、それは単に、私が使う道具です。
同じように私は、考えや感覚や体を使い、操作しますから、それらは単に道具です。
アートマーに付加された行い手という性質は、単に考えに属す思考の1つです。
カラナはカラナ、アートマーはアートマーとして知る人は、両方の真実を知る人です。
アートマーの真実を知る人は、アン・アートマーの真実を知り[タット・トヴァ・ヴィト]、これがグナ・ヴィバーガが意味することです。
アートマーは、カルターではないので、どの様な行いもせず、行いは、グナから、つまり肉体・考え・感覚器官から[カーリヤ・カラナ]のみ発しています。
ニャーニーは、あらゆる願望や空想に悩まされませんから、多くの願望は起こっても簡単に去ってしまいます。
「これは私にとって必要なのかどうか?」という、ブッディの形の中にあるアートマーに引き受けられる、実用的且つ道徳的な考察が願望に添って進むかを決定します。
食べる、歩く、どの様な探究に没頭したとて、行動器官や感覚器官を伴いカルマを行います。
しかし、アートマーは、行いに直接巻き込まれたり、関わっていないというのが、カルマの真実です。
アートマーは、願望や、決心ではありません。
願望や決定は、考えの移り変わる形[ヴルッティ]として、いつもあります。
ヴルッティは、アートマーですが、アートマーはヴルッティではなく、全てのカルマは、アートマーではなく、ヴルッティから生じます。
カルマとアートマーの本質、2つの違いを知る人は、プラクルティを全くあるがままに見ています。