
प्रकृतेर्गुणसम्मूढाः सज्जन्ते गुणकर्मसु ।
prakṛterguṇasammūḍhāḥ sajjante guṇakarmasu |
तानकृत्स्नविदो मन्दान् कृत्स्नविन्न विचालयेत् ॥३.२९॥
tānakṛtsnavido mandān kṛtsnavinna vicālayet ||3.29||
プラクルティの変化によって惑わされた人は、体・考え・感覚の集まりの変化と行いに束縛されています。自分自身を知る人は、知らない人たち、つまり、識別を持たない人たちを妨げませんように。
-
多くの人は、アートマーと、プラクルティの変化[prakṛti-guṇa]である「体・考え・感覚」を混同しています。
「私はこの体や考えである」と思い込むことが、「結果を出す為に、それをします」という束縛の原因です。
自分を行い手と見なすことで、カルマとその結果に執着し、振り回されます。
消化不良の時は、好きな食べ物さえ食べたくないし、何もしたくありませんが、その様な「沈滞した鈍な性質」の人が、グナとカルマに束縛された人、つまりヴィヴェーカを持たない人[manda]です。
部分的な知識はあっても、アートマーを誤解している人[a-kṛtsnavit]と言われました。
無知な人は、目に見える結果(成功・失敗)だけでなく、目に見えない結果(プンニャ・パーパ)にも支配されています。
これら「目に見えるもの[dṛṣṭa]」と「目に見えないもの[a-dṛṣṭa]」の両方に執着することが、さらなる混乱と束縛を生む要因です。
◎無知はそれが完璧であるときに限り至福!
完全な無知であれば、 自分をカルターとも、ボークターとも思わないため、悩みも発生しません。
中途半端に知識があるゆえに、かえって執着や問題が生じます。
この段階の人[manda-prajña]には、真理を教えることは逆効果です。
「カルマは無意味だ」「祈りや瞑想はナンセンスだ」などと、準備ができていない人に「知識だけが重要」と説いても、助けにならないばかりか、生活の基盤を失わせたり、単なる怠慢に陥らせたりする危険があります。
そうなると、生活ができなくなり、グルに「お金を貸してくれ」と依存しに来る矛盾が生じます。
スピリチュアルな教えでは「金銭欲を捨てろ」と言われがちですが、お金そのものが悪いのではありません。
お金や富は、ラクシュミーで、社会や生活を支える「資源」です。
「稼がないこと」ではなく、「ダルマに従って、正しく稼ぎ、正しく使うこと」が大切なのです。
未熟な人を混乱させて生活を破綻させるのは、本当の教えではありません。
その人に合わせて、「まずは正しく働き、社会的な義務を果たしなさい」と導くことこそが、賢者の持つ慈悲(compassion)なのです。
ムムクシュであっても、ラーガ・ドヴェーシャが残っている人には、無理に知識を詰め込むのではなく、行いを通じて考えを浄化する、カルマヨーガの道があります。
完全に価値構造が整い、準備ができた人にのみ適した道がサンニャーサです。
相手がどの段階にいるかを見極め、不必要にその人の歩みを乱してはならないというのが、クリシュナの教えの核心です。
