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ギーターヨーガ

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【ギーター】第3章30番目の詩

मयि सर्वाणि कर्माणि सन्न्यस्याध्यात्मचेतसा ।

mayi sarvāṇi karmāṇi sannyasyādhyātmacetasā |

निराशीर्निर्ममो भूत्वा युध्यस्व विगतज्वरः ॥३.३०॥

nirāśīrnirmamo bhūtvā yudhyasva vigatajvaraḥ ||3.30||

識別ある考えを持ち、私の中に全ての行いを手放し

期待や、「私の物」という感覚から自由で、怒りや不満なく戦え

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この詩の「戦え!」という言葉は、ベッドから起き上がる毎朝の戦いに始まり、日々直面する状況が当てはまり、アルジュナのすべき行い[カルタッヴャム カルマ]は、戦争でした。

以前も出てきた言葉(第2章)「立ちあがって戦え!」は、命令やアドバイスでもなく教えです。

クリシュナは、論点を示した後「戦え」と言いますから、「ですから」という言葉がここで、仄めかされています。

前半の詩は、どの様にしてアルジュナが戦うのかを扱います。

「全ての行いを手放して戦いなさい! [サルヴァーニ カルマーニ サンニャッスャ ユッデャッスヴァ]」

行いを手放すとは、最大の努力をし、行いを選択し、結果はイーシュワラからのプラサーダムとして受け取るということで、識別を持つことで様々な恐れを手放すということです。

もう1つは、「全ての行いを手放して先生の所に行って、シャーストラを聞きなさい[サルヴァーニ カルマーニ サンニャッスャ シュラヴァナム クルヤート、グルム エーヴァ アビガッチェート]」です。

全ての行いを手放し、自分の背後にある橋も、船も燃やして、モークシャに向かうのです。

手放すとは、モークシャの知識を得るまで、先生の下で学ぶことを意味し、隠退は、モークシャのためだけで、他のどの様なことの為でもありません。

この詩では「全ての行いを手放して、戦いなさい! [サルヴァーニ カルマーニ サンニャッスャ ユッデャッスヴァ]」という意味で使われています。

戦うことは行いです。

「全ての行いを手放す」という意味は、祈り、儀式、食べる、眠る、助けるなどの全ての他の行いを手放し、戦いだけしなさいと言っているのではありません。

アルジュナにとって、たまたま戦い[ユッダ]が、すべき事です。

「私の中に[マイ]」という言葉を考慮に入れるなら、その意味が明らかです。

「私の中に」とは、「神の中に」という事ですから、全ての活動が神に捧げられるという意味で、手放す[サンニャーサ]は、カルマ・ヨーガと繋がっています。

シャンカラは解説で、(ジャナカの様な)王様に仕える者を例え、「私は、この役割を果たすためにここにいる。この役割を果たすため、求められたやり方で、私はそれをする。」と言っています。

同様に、好きであろうとなかろうと、ダルマの法則を通して、私達は気がつくと、ある状況下にいます。

アルジュナにとっては、それがたまたま戦争でした。

アルジュナは、クシャットリヤだからといって、すべき事はいつも戦う事という意味ではありません。

「サルヴァーニ カルマーニ サンニャッシャ ユッデャッスヴァ」という言葉を間違ってとれば、いつも戦わねばならないと、考えていたかもしれません。

すべき事をするとは、気がつくと今ここにいる、という状況の前後関係の中で理解します。

ある種の状況が、ある種の行いを必要としますから、「戦いなさい」は「すべき事を行いなさい」そして、それをイーシュワラへの気づきを持ち行いなさいと理解します。

イーシュワラへの気づきが、アッデャートマ・チェータサー という言葉でこの詩で述べられました。

その考えは、識別[ヴィヴェーカ]があることを意味しています。

アッデャートマは、自分自身に関してという意味で、アッデャートマ・チェータスは、ヴィヴェーカ・ブッディと呼ばれます。

正しい事、正しくない事を理解するということです。

ヴィヴェーカ・ブッディは言います。

「私は行い手です、仕える者[ブリッテャ]として、イーシュワラのためにこれをします[アハム カルター、イーシュワラッスャ ブリッテャヴァト カローミ]。」

この様に行いをする人は、探究者[ムムクシュ]で、その人は自分自身をカルターであると考えていますから、カルマ・ヨーギーです。

ここに進化が起こり得るのです。

完全に幻惑させられている人[ヴィムーダートマー]もカルターであり、その人は、結果のためだけにカルマをします。

ヴィムーダートマーは、一連の行いを選ぶ時、ご都合主義と簡便性が勝り、ダルマに反して進む言い訳をし、あたかも正当な理由をもち入り、盲目になります。

一方、カルマ・ヨーギーは、イーシュワラのために行いをします。

それには、イーシュワラに気づいている考えを伴うヴィヴェーカが必要です[アッデャートマ・チェータサー]。

全てがイーシュワラ、私が置かれているこの状況を統括しているダルマの秩序は、神[イーシュワラ]です。

その秩序が、それぞれの状況で、私に期待されている事を決めます。

この事実への気付きを持ち、カルマ・ヨーギーとして行いをします。

「携わる全ての行いを、私に明け渡し行いなさい」とクリシュナは言いました。

ニラーシーヒは、将来へのあらゆる望み[アーシャー]が去ってしまった人です。

将来の計画、目標、壮大な計画、および優先事項は、今何をすべきかに関して、現在の行動方針を抑圧し、もみ消すことができます。

将来の事だけを考え、現在すべきことに妥協する人は、カルマ・ヨーギーではなく、結果のためだけにカルマを演じる人[ア・ヴィヴェーキー]です。

ニラーシーは、将来への野心に妨げられたり、野心を欠いたりしません。

私の物という気質[ママットヴァ]が、去ってしまった人がニルママです。

「これは私の物、これは私の物ではない」「これは私の仕事ではない。私に得はない。これは彼の仕事、なぜ私がしなければならないの? 彼がするべき。」とは考えません。

このママットヴァは、人が成熟する過程における最も大きな弊害です。

人が成熟するために、何をするべきかを理解する必要があります。

ニラーシーと、ニルママ、この2つの言葉によって、カルマ・ヨーガが並大抵の事ではない事を理解することができます。

それは十分な成熟とイーシュワラである法則への気付きを必要とします。

カルマ・ヨーガは、仕事の報酬を受け取るべきではないという意味ではありません。

報酬を受け取らないことが、適切であろう状況はあるかもしれませんが。

何がカルマ・ヨーギーにするのかは、単にイーシュワラへの気付きなのです。

怒りや不満の全てからの自由[ヴィガタ・ジュヴァラ]は、どの様に行いをすべきかを表す別の言葉です。

イーシュワラが見えていない時、摩擦する時、私が今ここに置かれている状況に「何で私ばかり」と、不満[ジュヴァラ]を持ち、愚痴をこぼします。

クリシュナはアルジュナに、愚痴や不平不満、失望や怒りを持たず、ご機嫌に戦うように言いました。