
ये मे मतमिदं नित्यम् अनुतिष्ठन्ति मानवाः ।
ye me matamidaṃ nityam anutiṣṭhanti mānavāḥ |
श्रद्धावन्तोऽनसूयन्तो मुच्यन्ते तेऽपि कर्मभिः ॥३.३१॥
śraddhāvanto'nasūyanto mucyante te'pi karmabhiḥ ||3.31||
批判的にならず[an-asūyā]信頼をもって(教えや先生の欠陥を探すこと無しに)私のこの教えを常に追求する人たちはまた、カルマ(カルマヨーガ)によって解放されるでしょう。
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カルマをする3つのタイプの人達(賢者、識別のない人、ムムクシュ)がいます。
知識を得た賢者[jñānī]であっても、ジャナカ王のように活動を辞めない人々がいます。
それが彼らの役割、宿命[prārabdha]だからです。
自分のためではなく、「世界の利益」や他のお手本となるために行動します。
彼らは活動していても、知識の上では「自分は行い手ではない」すなわちサルヴァ・カルマ・サンニャーサです。
ニャーニーには、表向きの生活スタイルによって2つのタイプがいます。
●サンニャーシー: シャンカラのように、世俗を離れ、教えることなどに専念する人。
●カルマヨーギー: ジャナカ王のように、社会の中で活発に活動する人。
どちらも「私は行いから自由である」という同じ知識を持っており、違いはありません。
モークシャに関心がなく、ラーガ・ドヴェーシャだけで動く人々[a-viveki]もいます。
楽な道を選びがちで、目的のためにアダルマを選ぶこともあります。
こうした人々には、まずはダルマに従って望みを追求するよう促すことが大切です。
それが彼らにとっての成長の第一歩となります。
◎人の選択は正しい事に明け渡される
3つ目のタイプの人が、モークシャを望んでいるけれど、まだラーガ・ドヴェーシャがある人の[mumukṣu]です。
サンニャーサとカルマ・ヨーガ、どちらの道を選んでも、共通して必要なのは 、手放すこと、放棄[tyāga]です。
サンニャーシーは、 成熟を経て義務を手放した人で、カルマ・ヨーギーは、行いの中にいながら、自分の「好き嫌い」を手放します。
カルマ・ヨーギーは、「何が自分にとって都合がいいか」ではなく、その状況において「何が適切か、なすべきか[kartavya]」を優先します。
これは、ラーガ・ドヴェーシャではなく、ダルマに従うことが求められます。
わがままな子供のような「自分が欲しいからやる」という衝動的な生き方からの脱却です。
カルマ・ヨーガは、単なる道徳的な行いではなく、イーシュワラ認識に基づきます。
すべての行いを神への捧げものとして行い[yajña]、目の前の状況はすべて「カルマの法則」の結果であると受け入れます。
カルマは法則で、法則とはイーシュワラです。
自分の行いの結果がどうであれ、それを神からの授かりもの[prasāda]として、文句を言わずに穏やかに受け取ります。
◎どの様にクリシュナの世界観が従われるべきなのか
クリシュナは、カルマ・ヨーガという生き方を実践する人々[ānavāḥ]が持つべき資質を挙げています。
継続性[nityam]は、常に、絶え間なくという意味です。
週末だけ、あるいは気が向いた時だけの練習ではなく、24時間365日の生き方そのものとしてカルマ・ヨーガです。
朝の瞑想だけでなく、日常のすべての活動がその練習の場となります。
信頼を伴う受け入れ[śraddhā]は、シャーストラや先生の言葉が、現時点の自分の限られた知識では矛盾しているように見えても、「そこには真実がある」心を開く態度です。
この信頼があるからこそ、人は途中で投げ出さずに探究を続けられます。
反感や嫉妬のなさ[an-asūyā]は、教えや神に対して、「なぜこんなことをしなければならないのか」という不満や反発心を持たずに従うことです。
粗探しなどしない、反感のない心が、教えを吸収するための土壌です。
◎あなたが知り得ることは、あなたが既に知っていることにより決まる
私たちの「考え」は、過去の体験に基づいた「自分はちっぽけ」という結論を握りしめています。
そのため、真理[tat tvam asi]を聞いても、自分の結論と矛盾するために「馬鹿げたこと」として退けてしまいます。
ここに最大のパラドックスがあります。
(※paradox:ギリシャ語の「para(反した)」と「doxa(考え、意見)」が語源で「考えに反するもの)
まだ知らない真実を知るためには、まず『自分はちっぽけ』という今の結論を疑い、聖典を唯一プラマーナとして受け入れます。
この壁を突破するために、シュラッダーが必要です。
この知識は「新しい情報の追加」ではなく、「すでにある事実への気づき」です。
ミッテャーという言葉を「幻想や間違い」と訳すと、矛盾が生じるので、教えそのものが無意味に思えてしまいます。
もし「すべてが幻想」なら、そう言っている自分も、その言葉も幻想になってしまい、サッテャがどこにも存在しなくなるからです。
ミッテャーは「間違い」や「幻想」ではなく、リアリティとして理解されるべき言葉です。
自分自身のこれまでの結論に真っ向から反する教えを聞くとき、私たちの「考え」は反発します。
今の段階では理解できなくとも、私に理解できない要因があるという態度[śraddhā]があって、探究を途中で投げ出さずに、真実にまで辿り着くことができるのです。
◎プラマーナとしてのヴェーダーンタ
ヴェーダーンタは単なる学術的・客観的な研究対象ではなく、真実を知るための「独立した知識の道具[pramāṇa]」です。
五感などの他の手段では到達できない領域を扱うため、他の手段によって、正しいか否かを判定することはできません。
プラマーナがその機能を発揮するためには、まずそれを受け入れる態度[śraddhā]が必要です。
色を判断するのに「目」を信頼して使う必要があるのと同様に、聖典の教えも、まずプラマーナとして信頼しなければ、その真実性を自ら証明することはありません。
「それが正しいかどうか」を理屈で分析する前に、まずは知識の道具として機能させるチャンスを与えなければなりません。
すなわち、道具は使わなければ、働くか分からないということです。
プラマーナが自己証明するのは、シュラッダーを持ってそれと共に働いた後のみです。
◎異議を唱える根拠がない
私たちは「自分は小さく、不完全な存在だ」と思い込んでいますが、シュルティは「あなたは全体である」と説きます。
「自分はブランマンではない」と証明しようとしても、それは不可能です。
なぜなら、アートマーは、目に見える対象物ではないため、知覚や推理といった通常の道具では否定できないからです。
「自分は無知だ」という感覚は、単なる慣習的な思い込みに過ぎず、聖典が提示する「あなたが自由である」という可能性を否定する正当な理由はどこにもありません。
聖典がわざわざ教えるのは、私たちがすでに知っていること(私は小さい、など)ではなく、まだ知らない真実です。
「私が全体である」という言葉は、私たちが本来求めている「自由」そのものです。
望ましい教えであるからこそ、最初から否定するのではなく、それが真実であるという前提で向き合う価値があります。
この教えを理解するには、自分一人の頭で考えるのではなく、伝統的な適切な方法論が必要です。
先生から生徒へと代々受け継がれてきた知識の体系があり、この源流は神にまで遡ります。
「聖典の言葉は真実で、もし理解できないなら、それは自分の理解がまだ追いついていないからだ」という謙虚で前向きな態度こそが、知識を得るために必要な態度です。
◎シュラッダー無しに混乱は避けられない
マックス・ミュラーのシリーズ(西洋からの研究)を例に、ヴェーダーンタを「学術的・客観的」にのみ捉えることは危険です。
シャンカラが「ブランマン」「イーシュワラ」「パラメーシュワラ」という言葉を使い分けるのは、矛盾や無知からではなく、それらが究極的には同じ一つの真実を指しているからです。
表面的な言葉の使い分けに固執して「シャンカラは違いを知らなかった」と断じるのは、プラマーナとしての機能を見失っている証拠です。
教えの中に矛盾を感じたとき、プラマーナに矛盾があるのではなく、「自分の理解がまだ追いついていない」と考えるのがシュラッダーです。
アルジュナも、クリシュナに「矛盾している」と批判するのではなく、「矛盾しているように見える」という態度でした。
ブランマンを知るには「整理整頓された考え」が必要であり、その基盤としてシュラッダーに基づくカルマ・ヨーガが不可欠です。
シュラッダーの対極にあるものが、嫉妬心[mātsarya]と、欠点探し[asūyā]です。
他者の成功や幸福を見て、自分の考えに苦悩や不安が生じたり、他者の美徳の中にさえ欠点を見つけようとします。
教えに対しても「粗探し」をして退けてしまいます。
◎教えの中に欠陥を見つけようとする試みはシュラッダーではない
人はしばしば「カルマ・ヨーガなんて効果がない」といった事前に持った結論を正当化するために、理由を後付けして教えを否定しようとします。
粗探し[asūyā]をする人は、他者の行動や表情、境遇といった「目に見える部分」だけで、その人の進歩を決めつけてしまいがちです。
その人の考えの成熟度は、外からは決して見えません。
教えを退ける人は、しばしば「モークシャ」や「カルマ・ヨーガ」を、魔法のような劇的な変化や、物質的な成功と勘違いします。
一方、シュラッダーを持つ人は、自らの考えの浄化[antaḥ-karaṇa-śuddhi]のために教えを喜んで受け入れ、練習の機会を自分自身に与えます。
クリシュナは、世俗の義務を果たすカルマ・ヨーギーも、知識を探究するサンニャーシーと「同じく[api]」解放されると言いました。
まずサンニャーシーが解放され、そして(ついでに)カルマ・ヨーギーもまた解放される。
これでは「カルマ・ヨーガは、サンニャーシーになれない人のための代用案(二流の道)なのか?」という疑念を生んでしまいます。
「アピ」という言葉を「also(〜もまた)」の意味でとるなら、それは混乱を作り出し得ますが、「as well(同じく)」の意味でとられるなら、混乱はありません。
カルマ・ヨーガによって考えが準備できたとき、人は「私はブランマン」という知識を正しく理解します。
その知識によって、過去から蓄積されたカルマ[sañcita-karma]から解き放たれます。
サンニャーシーは直接的に知識を求め、カルマ・ヨーギーは行動を通じて知識を受け取るための「心の器」を準備します。
最終的に必要なのは「知識」であり、カルマを手放しているかどうかという外形的な違いに関わらず、知識に到達した者は等しく自由を得ます。
カルマ・ヨーギーは「行いを続けながら、行いの結果から自由になるのです。
