ये मे मतमिदं नित्यम् अनुतिष्ठन्ति मानवाः ।
ye me matamidaṃ nityam anutiṣṭhanti mānavāḥ |
श्रद्धावन्तोऽनसूयन्तो मुच्यन्ते तेऽपि कर्मभिः ॥३.३१॥
śraddhāvanto'nasūyanto mucyante te'pi karmabhiḥ ||3.31||
教えや先生の粗探しをせず、信頼を持ち、私のこの教えに常に従う人々は、
彼らも同様に、カルマ・パラの束縛(サンチタカルマ)から解放されます
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「あなたは全体。あなたがブランマン」というプラマーナの言葉に沿って進むのみです。
「あなたはブランマンではない」などと、誰かに言われる必要はありません。
「私が全体」というシュルティの言葉は、不快なく、そうありたいことです。
自由を求める背景には、「私はちっぽけ」という結論があり、「既にあなたは、その小ささからも自由」と言うシュルティを否定する根拠などありません。
「私がブランマンではない」と証明出来るなら、ブランマンは知覚や推理の範疇にあることになります。
知覚や推理は、本質であるブランマン、主体アートマーが利用できる知識の道具です。
アートマーはブランマンです。
アートマーは、知覚や推理で知られる物ではないので、「私がブランマンではない」と証明出来ません。
ですから、知識の道具[プラマーナ]として、シュルティにシュラッダーが必要です。
「タット トヴァム アシ」という提言は理解すべきことなので、それを知る先生のもとで学びます。
「先生に理解出来たのだから、私も理解出来る」と思うかもしれませんが、その先生にもグルがいて、そのグルもグルがいたのでそれを知りました。
そうすると、最初の先生まで遡ります。
クリシュナ神は「最初に、まさに私によって、それは教えられた」と言いました。
シュルティにシュラッダーを持つなら、プラマーナは働きます。
「聖典の言葉が真実、私の理解が適切ではない」という態度が、シュラッダーです。
他の教えにも興味を持ち、ヴェーダーンタはあらゆる聖典の中の1つという位置づけ、すなわちシュラッダーが無いなら、疑い深くなり、シュルティを手放してしまいます。
シャンカラのブランマ・スートラ・バーシャの翻訳をした作者が、「シャンカラはブランマンとイーシュワラの違いを知らなかった」とイントロダクションで書きました。
この様な人々による翻訳は、要点を見失っていてとても危険です。
シャンカラは、イーシュワラという言葉を、創造宇宙の源[ジャガット・カーラナム ブランマ]という意味のブランマンとして使いますし、ある時は、パラム ブランマも パラメーシュワラも使います。
シャーストラの言葉を、シャンカラが明確に解説したように、パラメーシュワラも、パラマートマーも、ブランマンも、ジーヴァも1つの同じものです。
パラメーシュワラは、ブラフマンです。
ブランマンは、全ジャガットの源ですからパラメーシュワラです[ジャガット・カーラナットヴァート ブラフマイヴァ パラメーシュワラハ]。
アルジュナは、シュラッダーを持ちプラマーナを受け入れていたので「まるで矛盾しているように見える(3-2)」と言いました。
モークシャは知識としてですから、適切な考え、シュラッダーに基礎が置かれているカルマ・ヨーガが必要です。
この詩で述べられる勉強中の人々は、シュラッダーを持ち[シュラッダーヴァンタハ]、その人々は、アナスーヤンタハとも言われています。
アスーヤーとマーッサルヤという2つの言葉の違いを見てみます。
誰かの成功、能力、富、知識、財産などを見て、unhappyな感情、不安やゆらぎが、考えにポップアップするかもしれません。
この感情が、jealousy、嫉妬[マーッサルヤ]です。
[パローックリシュタム ドリシュットヴァー ジャーヤマーナハ サンターパハ マーッサルヤハ]
もう1つの嫉妬タイプ、アスーヤーは、何らかの美徳を持つ人の中に欠点を見ようと試みます[グネーシュ ドーシャ・ダルシャナム]。
誰かが、〇〇さんの美徳を褒め称えるなら、アスーヤーな人は、〇〇さんを知らずに賞賛していると言います。
〇〇さんが、全く美徳に値しない人だと証明するために、スキャンダルやら、欠点や汚点を見つけようと常に試みる惨めな習性です。
クリシュナの教える宇宙観、シュルティの宇宙観にシュラッダーを持つ人々は、教えの中に欠陥を見ようと試みたりしません。
シュルティの中に欠陥を見つけようとする人は、既に持つ結論を正当化したいので、聖典で言われていることの粗探しをしようとします。
その人は「カルマ・ヨーギー達が成し遂げたことなど何も無いし、彼らは何も変わっていない」と言ったりしますが、変わったか、変わっていないかは、本人にしか分かりません。
シュルティの世界観にシュラッダーを持つ人は、カルマ・ヨーガが、知識を得るために必要な考えを与えると受け入れているので、少しもアスーヤーはありません[アナスーヤンタハ]。
アンタハ・カラナ・シュッディを得るなら、「私がジャガット・カーラナム ブランマ」という知識を理解しますから、全てのカルマ・パラ、すなわちサンチタ・カルマから彼らは解放されます[テー アピ カルマビヒ ムッチャンテー]。
アルジュナは、サンニャーシーになりたかったので、クリシュナは「サンニャーシーも、カルマ・ヨーギーも解放される」と言いました。
カルマヨーガとニャーナヨーガ、この2つの生き方の唯一の違いは、カルマ・ヨーギーは、知識を探究する為、自分自身を準備するというところです。
そしてこれは、アンタハ・カラナ・シュッディが完全ではないサンニャーシーも同様です。
サンニャーシーだけが自由を得るのではなく、カルマ・ヨーギーもムムクシュですから、自由を得ます。
行いを道具として、カルマ・ヨーギーは、サンニャーシーと同様に全てのカルマから解放されます。
「アピ」という言葉を「also」の意味でとるなら混乱を作り出し得ますが、「as well」の意味でとられるなら、混乱はないでしょう。