
इन्द्रियस्येन्द्रियस्यार्थे रागद्वेषौ व्यवस्थितौ ।
indriyasyendriyasyārthe rāgadveṣau vyavasthitau |
तयोर्न वशमागच्छेत्तौ ह्यस्य परिपन्थिनौ ॥३.३४॥
tayorna vaśamāgacchettau hyasya paripanthinau ||3.34||
それぞれの感覚の対象物に関して、愛着と嫌悪があります。それら二つの支配下にその人が来ませんように。なぜなら、それら二つはその人の敵ですから。
-
●言語表現による強調[vīpsā]
サンスクリット語の「感覚器官の[indriyasya]」という言葉の繰り返しは、「全ての」という意味を表します。
つまり、視覚・聴覚・触覚など「あらゆる感覚器官の対象物」について述べていることを強調しています。
感覚器官(目や耳など)自体は、対象物に対して愛着や嫌悪を抱くことはありません。
それらは情報を脳に伝えるだけの「単なるレポーター」に過ぎません。
しかし、人間がその感覚器官を通じて対象に接する時、そこには必ずラーガ・ドヴェーシャという二つの反応がセットで備わっています[vyavasthitau ]。
この「あらゆる対象に対して、反射的に好き嫌いが生じてしまう」という事実こそが、これまで議論されてきた「性質[prakṛti]に支配される」メカニズムの正体であり、ギーターにおける心理学の全容です。
◎好きと嫌いはプラクルティによって起こる
音・色・味などの感覚対象、さらには対人関係における「愛」や「好み」までも、その理由は論理ではなく、自身の性質[prakṛti]にあります。
なぜその人を好きなのか、本当の理由は本人にも分かりません。
それは過去の行いの結果であるカルマ[prārabdha-karma]や、蓄積された印象[saṃskāra]が、潜水艦のように適切なタイミングで浮上してきたものです。
「好き・嫌い」という反応が湧き上がること自体は、自然の法則[prakṛti]であり、神々ですら避けられません。
したがって、「好き嫌いを持つな」と命じることは無意味なのです。
ここでクリシュナは「好き嫌いの支配下[vaśam])に入ってはならない」と言います。
好き嫌いという感情が湧くのは仕方がないが、その感情に突き動かされて行動するかどうかには、人間の自由意志が介入する余地があります。
「好きだからやる、嫌いだからやらない」という衝動的な反応(性質の支配)に身を任せるのではなく、その力の支配を受けないように決意します。
これこそが、人間だけに与えられた自由意志の使い道であり、シャーストラが機能する場所なのです。
◎考えの論理
「特定の考えを抱かないように」と努力することは逆効果です。
「猿を思うな」と意識した瞬間に、心は猿を想起せざるを得ず、避けようとすればするほど、むしろ思考は執着や固定観念へと変わります。
避けようとする努力そのものが、その対象を心に留まらせる原因になります。
これを無理に抑え込もうとすると、自然な性質[prakṛti]との間に「摩擦」が生じ、自分自身が傷つくことになります。
湧き上がる思考や感情(例:王女への叶わぬ恋心など)は、個人の責任というよりは、プラクルティという自然現象に属するものです。
思考が湧くこと自体にコントロールは及ばないし、無理にコントロールすべきでもありません。
湧いてきたものは、そのままにしておく(あるがままにする)ことが賢明です。
「力の支配下に入らない[tayoḥ vaśam na āgacchet]」とは、「好きだ」という考えが湧くのを止めることはできませんが、その衝動に突き動かされて不適切な行動を取るかどうかを選択することにこそ、人間の自由意志があるとクリシュナは言いました。
◎ある種の考えを持つ事は避けられない
多くの現代的な精神修養は「良い考えを持ち、悪い考えを避けろ」と教えますが、これは探究者を心理的不安定に陥らせるだけです。
思考はすべて自然現象[prakṛti]であり、ゴミも宝も本質的には同じです。
モークシャとは、思考の内容を選別することではなく、それらすべての概念を超越することにあります。
自由意志とは「何を考えるか」をコントロールすることではなく、「湧き上がった思考(好き嫌い)と自分を同一視し、どこまでそれに付き従うか」を決める力です。
ヴィヴェーキーは、 好き嫌いという感情が湧いても、それを客観的に眺め、置き去りにすることができます。
無知な人は、感情に自分を明け渡し、その衝動のままに行動して身を滅ぼすのです。
ラーガ・ドヴェーシャ(好き嫌い)そのものが悪なのではありません。
支配下に入る(衝動に負ける)時、 それはあなたの「理性を奪う泥棒」となり、なすべきことを妨げる「敵[paripanthinau]」に変わります。
支配されない時、 思考はただの「便利な道具」として留まります。
自分にどのようなラーガ・ドヴェーシャが渦巻いていても、それを気に病む必要はありません。
大切なのは、感情の支配を拒絶し、「なすべきこと[dharma]を行い、なすべきでないこと[a-dharma]を避ける」という基準で行動を選択することです。
これこそがカルマ・ヨーガであり、自由への道です。
