अर्जुन उवाच ।
arjuna uvāca |
अथ केन प्रयुक्तोऽयं पापं चरति पूरुषः ।
atha kena prayukto'yaṃ pāpaṃ carati pūruṣaḥ |
अनिच्छन्नपि वार्ष्णेय बलादिव नियोजितः॥३.३६॥
anicchannapi vārṣṇeya balādiva niyojitaḥ||3.36||
アルジュナが言いました。
たとえ望んでいなくても、 まるで何かの力によって強いられるように
何に駆り立てられて人は罪を犯すのでしょう?おおヴァールシネーヤよ![36]
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デーヴァターを視野に入れ、ラーガ・ドヴェーシャに支配されず、すべきことをする。
好きなこと、快適なことに従うのではなく、喜ばしいものでなくとも、スヴァダルマに従うことがより良いと、以前の詩で言われました。
カルマ・ヨーガについて全てを聞いた上で、人をアダルマへと駆り立てるものは何か?とアルジュナは、ヴルシニたちの家に生まれた人[ヴァールシネーヤ]とクリシュナを呼び、尋ねました。
喜びがあるにしても、なぜ人は、適切ではないと知るカルマをするのか?
そのような人を、まるで何かの力によって不適切な行いをすることに駆り立てられる人[バラート イヴァ ニヨージタハ]と述べます。
望んでいなくとも[アニッチャン]も、その様にせき立てられるのは、何によってでしょう[ケーナ プラユックタハ]?
マハーバーラタ物語の中で、ドゥルヨーダナは尋ねられました。
「立派な王家に生まれ、素晴らしい教育を受けてきたのに、何があなたをこのような行いに駆り立てるのですか?」
それに対し、ドゥルヨーダナは答えました。
「私は何が正しいかを知っていますし[ダルマム ジャーナーミ]。
何が間違っているかも知っています[アダルマム ジャーナーミ]。
私の問題は、ダルマ・アダルマに関する無知や混乱ではない。
私は、ダルマを知ってはいても、それを追い求めない[ジャーナーミ ダルマム ナ チャ メー プラヴルッティヒ]。
私は、アダルマと知ってはいても、それを断つことが出来ない[ジャーナーミ アダルマム ナ チャ メー ニブルッティヒ]。
私の心の中に座る何かによって[ケーナーピ デーヴェーナ フルディ スティテーナ]、
どの様な道に私が駆り立てられていようと[ ヤター ニユクトースミ]、
私はその様に行います[ タター カローミ]。」
ドゥルヨーダナは、それが何かを知りませんでした。
そして、アルジュナも、ドゥルヨーダナと同じ疑問がありました。
次の詩でクリシュナは、このアルジュナの質問に答えます。