आवृतं ज्ञानमेतेन ज्ञानिनो नित्यवैरिणा ।
āvṛtaṃ jñānametena jñānino nityavairiṇā |
कामरूपेण कौन्तेय दुष्पूरेणानलेन च ॥३.३९॥
kāmarūpeṇa kaunteya duṣpūreṇānalena ca ||3.39||
クンティーの息子よ。知識は、これ、賢者の不断の敵である
願望の飽く事を知らない火によって隠されます[39]
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火が煙、鏡が汚れに、胎児が子宮に隠されるように、この知識は、欲望の姿である敵に隠されます。
満たすことが難しい[ドゥシュプーレーナ]、満足させるのが不可能[アナレーナ]な願望に隠されます。
火は決して満足せず、燃料を与えるなら、更に燃え上がりますから、火はアナラと呼ばれます。
火のように、願望も満たされる可能性がないので、願望がアナラと言われました。
全ての願望が満たされたので隠退するとか、最後の願望というもはなく、無知からはじまる願望は「私こそがプールナ」と見抜かなければ終わることはありません。
◎全ての願望は、限りがあるという私たちの感覚から湧き起こる
願望は、「私は限られている」というセンスから生まれますから、どんな願望も、このセンスの一表現です。
このセンスが、願望が絶えず沸き起こる源泉のようなもので、新しい願望が表層に湧き起こり続けます。
そして、時には「自分は願望がない」という新しい問題と直面し、再び「足りていない」というセンスからの自由を求めます。
例え、成熟し、すべき事とすべきで無い事を知っている人[カーリヤ・アカーリヤ・ヴィヴェーキー]ですら、願望によって知識は隠され得るとシャンカラは言います。
願望が起こる前も後も、その人は知っているので「永続する[ニッテャ]」という言葉が言われました。
カーリヤ・アカーリヤ・ヴィヴェーキーが、知っているにしても、それに従い行動するとは限りません。
識別の知恵より、その願望がより強力なら、知りながらもその願望を満たそうとするかもしれません。
飽くことを知らない願望は、満たすのが難しく、識別ある人に敵対します。
一方、識別の無い人は、束縛のある願望が無益であることを、行いをした後にだけ知ります。
例えば、株で稼ごうと投資し、その投資が失敗するという話はよくある話です。
「私が貪欲でなかったなら・・・」「無意味[アナルタ]だった」という気づきは、投資した(行い)の後からだけです。
例え、その投資で儲けたとしても、お金を持った満たされない自分は残ります。
シャンカラは、カーマは識別のある人にとっての不断の敵[ニッテャ・ヴァイリー]と言いました。
行動する前も後も、願望は利益をもたらさない、と彼らは知っています。
「何が、不適切な行いをするように人々を駆り立てるのか?」「行いに駆り立てるものからどのように、解放されるのか?」を知りたかったアルジュナに対し、クリシュナはカーマをどの様に扱うのかを次の詩で語ります。