कर्म ब्रह्मोद्भवं विद्धि ब्रह्माक्षरसमुद्भवम् ।
तस्मात् सर्वगतं ब्रह्म नित्यं यज्ञे प्रतिष्ठितम् ॥३.१५॥
karma brahmodbhavaṃ viddhi brahmākṣarasamudbhavam |
tasmāt sarvagataṃ brahma nityaṃ yajñe pratiṣṭhitam ||3.15||
カルマはヴェーダから、ヴェーダは滅びることのないもの[イーシュワラ]から
生まれたものであることをあなたが理解しますように
ですから、全てに満ちるヴェーダは、いつもヤッニャの中に宿っています
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この詩でカルマは、ヴェーダの儀式[ヴァイディカ・カルマ]を意味し、儀式[ヤッニャ]は、ヴェーダ[ブランマ]そのものから生まれているものと理解します。
ブランマンは3つの側面(破壊・創造・維持)の創造主[ブランマージ]の名前でもありますが、ここではカルマの原因としてのヴェーダを意味します。
ブランマンは、カルマの本質を明らかにするヴェーダで、カルマの原因ですから、人は儀式を持ちます。
カルマはヴェーダから生まれたと言われました。
ブランマンは、滅びないもの[アックシャラ]、決して死ぬことも生まれることもないものから生まれたと、この詩では言うので、ブランマンは、絶対的なブランマンではあり得ません。
サンスクリット語の辞書でもブランマンがヴェーダを意味すると言われています。
ヴェーダは、滅びることのないブランマンから生まれ、呼吸の様に努力せず生まれたとも言われ、人間の追及[プルシャ・アルタ]、安全[アルタ]、喜び[カーマ]、正義[ダルマ]、自由[モークシャ]を明らかにします。
人が必要とする全てのものを明らかにするので、ヴェーダは全知[サルヴァ・ニャ]で、イーシュワラに明かされたと言われました。
知識は作られるものではなく、常にありますが、無知に隠されています。
(1+1=2を知る時、それは知識が作られるのではなく、ただ知られていなかった。)
知識が作られるとしたら、作られる場所は無知の場所(もともと知識がない場所)か、無知ではない場所(もともと知識はあったが見えていない)かのどちらかです。
知識が無知の上に作られるものなら、その無知が残るので、無知のベース上に知識は作られ得ません。
また、光が現れたら暗闇が去る様に、知識が起こると無知が去るのでしょうか?
そして、作られるこの知識とは何でしょうか?
もし、あなたが何かを発見するとして、それはすでにそこにあるものなのか、あるいは、あなたが何かを作り出して、それを発見するのでしょうか?
何かを作り出すには、既ににそれを知らなければならないので、あなたは知識を作り出してはいません。
知識は既にそこにあります。
なぜなら、それがその事実の知識なのですから。
1つの特有のリアリティー、事実があり、その知識とは、そのリアリティーと同じく本当のことで、その特有な事実と同じく本当のことなのです。
ですから、知識は事実の理解にすぎません。
知識はいつもあるもの、全てはただ「あるがまま」、未来も「あがまま」です。
可能性としての未来が「ある」、この「あるがまま」を私たちは知識と呼びます。
全ての知識とは、イーシュワラ、全知として意味されます。
全ての知識があるとすると、イーシュワラは生きた意識的なもの。
意識的でないものは、生き物ではないのです。
その存在が意識であるイーシュワラは全知で、つまり、全知は意識の中にあります。
イーシュワラと関わりを持つ個人[ジーヴァ]も、生き物、意識的な存在です。
では、生き物である個人の本当の姿、本質は何でしょう?