यस्त्वात्मरतिरेव स्यादात्मतृप्तश्च मानवः ।
आत्मन्येव च सन्तुष्टस्तस्य कार्यं न विद्यते ॥३.१७॥
yastvātmaratireva syādātmatṛptaśca mānavaḥ |
ātmanyeva ca santuṣṭastasya kāryaṃ na vidyate ||3.17||
しかしながら自分自身の中に喜びがある人、自分自身に満足し、自分自身の中に満たされている人
その人にとって成すべき事というのがありません[17]
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人(個人)は、満足させる状況を探し、何かがあって満足し、望ましい物を得て束の間の幸せを噛み締めますが、アートマ・ニャーナ・ニシュタは、安全や幸せになる為の、どんな切望からも自由な人[サルヴァ・カルマ・サーンニャーシー]、すなわちニャーニーです。
自分自身を行い手、 体験者とは見ず、純粋に意識として見ている人には、成さねばならないカルマなどありません。
その人は、自分自身で幸せ[アートマニ エーヴァ サントゥシュタハ]です。
あらゆる魅惑的な言葉を持つヴェーダも、雨季に井戸が役に立たないのと同じです。
ヴェーダは神の言葉で、お母さんの言葉のように「ためになる言葉」なのですが、毎日の儀式や四季折々の祭事は、命令されていると言う人がいますが、賢者は、ヴェーダに何かする様、命じられることがありません。
ニャーニーも行いをしますが、ニャーニーは、行い手であるという観念はありません。
自分自身を行い手として見ている人[ア・ニャーニー]だけが話しかけられ、ニャーニーは、話しかけられることすらありません。
「ラーマ、ここに来なさい!」と呼ぶならラーマが来て、クリシュナもジョンも来ません。
同様に、ヴェーダに話かけられているのは、行い手[ア・ニャーニー]だけなのです。
「行い手よ、この行いをしなさい。」
自分自身を行い手と見ている人だけがカルマに束縛されます。
カルマ・ヨーガは、ニャーニーのためではなく、ア・ニャーニーの為にあり、モークシャである知識を得るための間接的な道具です。
カルマ・ヨーガが間接の道具となるのは、アンタッ・カラナ・シュッディのためです。
知識は、知識の道具[プラマーナ]の探求で得られます。
考え[アンタッカラナ]に知識が起こるので、その考えの準備が必要で、それはカルマ・ヨーガによって成されます。
ですからクリシュナはアルジュナに「行いをするように[カルマ クル]」と言い続けるのです。
そしてカルマ・ヨーガとサンニャーサ、つまりニャーナ・ヨーガの両方の生き方は、モークシャのためであるとクリシュナが何度もアルジュナに言う理由です。
サンニャーサの儀式で、行いがないこと[ナイシュカルミャ]を成し遂げるのではありません。
知識がなければ、ナイシュカルミャはありません。
これが、ギーターを通してのクリシュナの論点です。