नैव तस्य कृतेनार्थो नाकृतेनेह कश्चन ।
न चास्य सर्वभूतेषु कश्चिदर्थव्यपाश्रयः ॥३.१८॥
naiva tasya kṛtenārtho nākṛteneha kaścana |
na cāsya sarvabhūteṣu kaścidarthavyapāśrayaḥ ||3.18||
その人にとって、この世界で、行いをすること、行いをしないことによって叶う目的が全くありません
また、その人は、どんなものにも依存してはいません。[18]
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満たされているニャーニーにとって、何1つ成し遂げなければならないことも、取り除かねばならないこと無く、ダルマやアダルマも超えています。
「では、ニャーニーは殺人も出来るということですか?」
ニャーニーは行い手ではないので、その質問に答えるなら「出来ないことは無い」と言えますが、賢者にとって何も得るものなど無いので、殺人を犯す理由はありません。
自分自身が満たされていると知る人は、罪を犯すことなど出来ません。
罪悪行為と「私は全体である」という知識は共存できません。
殺人事件など、犯罪の背景には、エゴという小さな個人がいます。
犯罪は、恐れや、貪欲さ、怒りなどがある時あり得るのであって、賢者は、そういった感情全てを既に処理しています。
罪を犯す人には「私は何かをしなければならない人で、そうしてこそ、何らかの人であり得る」という観念があり、その観念が、ア・ニャーニーであることを仄めかしています。
ニャーニーは、「行い手ではない」ことを知っているという意味で「する、しない」が無く、ダルマとアダルマ「すべき-すべきでない」を超えています。
ニャーニーは、ブランマージなどの、どこかに存在するどんな物にも人にも依存してません。
私達が「インドラに私は捧げものをします[インドラーヤ スヴァーハー]」と言う時、インドラ神は、強さや、お金、健康、権力、考えの浄化などを叶えてくれる者です。
つまり、何らかの目的を得るためです[カスチッド アルタ・ヴャパーシュラヤ]。
例えば、平静さ[ヴァイラーギャ]のために、知識のためにカルマを行っているという事ができます。
「平静さや知識が私の中に育ちますように」と祈りを捧げることは、良いことですが、これもアルタ・ヴャパーシュラヤです。
デーヴァターに祈りを捧げるなら、願いがイーシュワラに及ぶかもしれませんし、デーヴァターや、地方の村の役人に及ぶかもしれません。
その人にアルタ・ヴャパーシュラヤである願い事が捧げられます。
何らかの願望のために行いをするならアルタ・ヴャパーシュラヤですが、賢者には、何もアルタ・ヴャパーシュラヤがありません。
既に知識を得ていますから、賢者は「私は知識を得るためにイーシュワラに祈ります」と言うことが無いということです。
賢者にとって、イーシュワラだけがあるので、既にイーシュワラは、成さねばならないことは全て成してしまってます。
祈りを全て実らせ終えていること、それがモークシャです。
ですからニャーニーが、物や、生き物の中に依存することも、更に良くすることに、誰も貢献出来ません。
何にも頼っていないその満足を、誰もどんな方法でも妨げることは出来ません。
それが自分自身であり、また全てが自分自身なのです。