कर्मणैव हि संसिद्धिमास्थिता जनकादयः ।
karmaṇaiva hi saṃsiddhimāsthitā janakādayaḥ |
लोकसङ्ग्रहमेवापि सम्पश्यन्कर्तुमर्हसि ॥३.२०॥
lokasaṅgrahamevāpi sampaśyankartumarhasi ||3.20||
実際行いによってのみ、ジャナカ王や他の人は自由を得ました
また適切でない生き方に陥いることから人々を守るという
望ましい状況をだけを見て、あなたは行いをしなければなりません[20]
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カルマ・ヨーガは、自由である知識を強く望む人[ムムクシュ]のためです。
既に知識を持つ人[ニャーニー]は、行い手ではないので、成されるべきカルマはありません[カルタッヴャム ナースティ]。
「行い手の観念が無い」とは、知識の観点からです。
ニャーニーは行い手でも経験者でも無い、ことを知るのでカルマに束縛さず、ヴェーダにですら命じられることはありません。
ラーガ・ドヴェーシャを満たす人[ア・ヴィヴェーキー]とムムクシュがカルマをしますが、ダルマ・アダルマを考慮せず行いをするならば、必ず望ましくない結果があります。
ダルマの価値を持つ人[ダルミー]が、ムムクシュであるとは限りませんが、ダルマ・アダルマを視野に入れ、欲求を満たすのは健全なことです。
ムムクシュもカルマをしますが、ラーガ・ドヴェーシャの為ではなく、その人は、置かれた状況ですべき事をする為にカルマをします。
そして、その人が好き嫌いを果たすために行いをするなら、何であれ結果は、神からのプラサーダとして受け取られます。
この詩のクリシュナ議論は、この知識を追及する為に、全てを放棄した人々はある平静さ[ヴァイラーギャ]を持ち、偶然得られるものでは無く、適切な態度でカルマを行うことで得たとシャーストラで言われます。
カルマ・ヨーガが、考えをきれいにすること[アンタッカラナ・シュッディ]に導き、それが知識に導きます。
シュルティで述べられるジャナカ王や、アシュヴァパティなどは、王様で、家庭人で、守るべきオフィスを持ち、成されるべきこと[カルタッヴャム・カルマ]である様々な活動にとても忙しく従事していました。
また、自由[モークシャ]の別の言葉、サムシッディを得ている賢者でした。
行い[カルマ]の人生を生きることで自由を得たのです。