न मे पार्थास्ति कर्तव्यं त्रिषु लोकेषु किञ्चन ।
na me pārthāsti kartavyaṃ triṣu lokeṣu kiñcana |
नानवाप्तमवाप्तव्यं वर्त एव च कर्मणि ॥३.२२॥
nānavāptamavāptavyaṃ varta eva ca karmaṇi ||3.22||
パールタよ!私にとって、すべき事は何もありません
この3つの世界で、私によってまだ成し遂げられていない、成し遂げなければならない事がありません。
しかしそれでも私は行いに従事しています[22]
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自分自身の本質[ア・カルター]に目覚めているなら、’’行いが無い’’ことが成し遂げられます。
生きている限り活動が無い事は不可能ですから、’’行いが無い’’とは、活動が無い事ではなく、サンニャーシーも、カルマ・ヨーギーも、カルミーも常に活動します。
私は行いをしていない[アハム カルマ ナ カローミ]という知識、それのみが行いを完全に手放すことが出来るという知識は、1つの目覚めです。
明かされることは、私の存在の中で全ての活動が起こり、私自身はどんな行いもしません。
その様に努めようとか、そう思い込もうというものではなく、これは事実の認識です。
行いをしている様に見えても、この知識のみが、私に全ての行いの放棄をさせます(行い手という観念はありません)。
全ての行いは、肉体・考え・感覚器官の視点で、アートマーの視点からは何も’’行いが無い’’
これが、行いが無いこと[ナイシュカルミャ]の本当の意味です。
’’行いが無い’’という知識を成し遂げても、成し遂げてなくても、カルマをすることは少しも問題ではありません。
私とは何か?を知るなら、私にとってあることの全てはプラーラブダで、クリシュナ神は、アルジュナのプラーラブダを良く知っていました。
行いから自由な自分自身を知るなら、私のプラーラブダが命じることを私は行います。
その行いは、少しも私を束縛しません。
アートマーの事実に目覚めていない[ア・ニャーニー]にとっては、好き嫌い[ラーガ・ドヴェーシャ]を中和するために、カルマは私にとってのヨーガとなり得ます。
ニャーニーでも、ア・ニャーニーでも、私は行いをすることができます。
この詩でクリシュナは、すべき事は何も無いし、まだ成し遂げられていないことも、成し遂げるべきことも無い、と話します。
「3つの世界で」という表現は、全体宇宙を包括しているという意味で、この地上だけでは無いことを仄めかし、クリシュナには何も任務など無く、どの様な義務にも束縛されていませんでした。
成し遂げられない事も、成し遂げねばならないことも無く、"私が全てである"と知りながら全てが成し遂げられるのです。
夢の世界で例えるなら、夢の世界で私は全知であり、夢の中の登場人物や広がる風景、全てが自分自身の記憶であり、私が知っていることしか、そこに展開しません。
クリシュナにとって、することが何も無いのは[カルタッヴャム ナ アスティ]、得る物も、失う物も無いからです。
アンタッ・カラナ・シュッディが欲しいなら、カルマ・ヨーガの考え方[ヨーガ・ブッディ]で、カルマをし、考えは、十分に純粋なものとなり、知識が明かされます。
ラーガ・ドヴェーシャを満たしたければ、私はカルマをしなければならず、多くの人が、好き嫌い[ラーガ・ドヴェーシャ]を満たす為に、TODOリストを持ち、そのために行いをします。
満たされない願望でイライラしないよう、好き嫌いを満たすことは重要ですが、願望[カーマ]が悩みの種である火であることに代わりはありません。
火は「もう十分です!これ以上燃料は要りません。」とは、決して言いません。
火に例えられた願望が、サムサーラの原因と述べられるのは、この様な理由からです。
こうして私達は、成すべきTODOリストをいつも持っています。
"アートマーを全体である"と理解する人は、この束縛する性質である願望から自由ですが、その人が行いをしないという意味ではありません。
並みの人ではないクリシュナが、アルジュナの馬車を運転していました。
クリシュナはドヴァーラカの王でしたが、アルジュナが馬車の運転を頼んだ時、彼は名誉を感じ、それに喜んで同意しました。
クリシュナに成し遂げたいものが何も無いとしても、この戦争の前、使者としてドゥルヨーダナに会いにも行きましたし、子供時代から、妖怪をやっつけてきたり、フルートを吹いて、皆を歌わせ躍らせることに没頭させ続けたりと、いつも活動していました。
そして今、クリシュナは馬車を運転し、アルジュナの質問に答え教えています。
クリシュナはいつも行いの真只中にいます。