सक्ताः कर्मण्यविद्वांसो यथा कुर्वन्ति भारत ।
saktāḥ karmaṇyavidvāṃso yathā kurvanti bhārata |
कुर्याद् विद्वान् तथाऽसक्तश्चिकीर्षुर्लोकसङ्ग्रहम् ॥३.२५॥
kuryād vidvān tathā'saktaścikīrṣurlokasaṅgraham ||3.25||
バーラタよ!行いの結果に執着する知識を得ていない人達が、行いをする様に
人々を守りたい願望を持つ、執着のない賢者は行いをするでしょう
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私が全てであることを知るクリシュナは、22番の詩で「この地上や天国やその他の世界でも成し遂げることは無く、しなければならないことは何も無い」と言いました。
アルジュナは、お手本を示すために行いをするという事を説明し、あなたも私を知る人[アートマヴィット]だと仮定しなさい、とクリシュナは言いました。
「この3つの世界で、私には成し遂げることは何もない。なぜなら、私はアートマヴィットで、私が全てであることを知っているから」と、アルジュナも言えます。
何も失うものなど無いことを知りながらも、アルジュナは人々の為に行いをするのです。
人々から期待されていたことをしないアルジュナを見るなら、行いをしない方が良いという結論に至り、人々は破壊していきます。
アルジュナが示す模範に人々は従うので、手本を示さねばならない、とクリシュナは議論を戻し、バラタの一族に生まれた人[バーラタ]と呼びました。
バー[भा ]は、ブランマンの知識[ブランマ・ヴィッデャー]
その(ブランマンの知識)の中に喜ぶ人[तस्यामं यः रमते ]、という意味も込めてバーラタと呼びました。
ヴィッドヴァーンは、この知識を持つ人で、ア・ヴィッドヴァーンは、自分自身を行い手とする、この知識を持たない人です。
自分自身を行い手とする人[ア・ヴィッドヴァーン]は、アンタッ・カラナ・シュッディの為ではなく「私がこの行いをすれば、この結果を得る」と期待して行いをし、カルマに束縛されます。
この期待は、行いへの愛着ですが、行いそのもののへの愛着ではなく、結果への愛着です。
結果を求め、情熱や切望や心配が混ざり合い、行いをします。
「結果を求めて行いをする人と同じ情熱で、賢者[ヴィッドヴァーン]は行いをする」と、この詩でクリシュナは言いました。
両者とも、’’情熱’’は共通ですが、’’切望’’や’’心配’’は異なります。
行いの結果を求める人は、プラサーダ・ブッディである、カルマ・ヨーガ・ブッディが無いので、ラーガ・ドヴェーシャから行為をします。
すべき事という考え方[カルタッヴャ・ブッディ]が、その人にはないのです。
結果への情熱がある人が行いをする時、望む結果を得るという保証が無いなら、この情熱は長く続きませんし、結果に関して情熱があればあるほど、心配になるのです。
ですから「私が全体」と知らない人は、情熱と共に切望を持ち行いをします。