千葉県立 青葉の森公園近くの小さなヨガ教室

ギーターヨーガ

ヨガ 勉強会  個人レッスン・出張ヨガ 私について ブログ アクセス スケジュール・予約 お問い合わせ

【ギーター】第3章29番目の詩

प्रकृतेर्गुणसम्मूढाः सज्जन्ते गुणकर्मसु ।

prakṛterguṇasammūḍhāḥ sajjante guṇakarmasu |

तानकृत्स्नविदो मन्दान् कृत्स्नविन्न विचालयेत् ॥३.२९॥

tānakṛtsnavido mandān kṛtsnavinna vicālayet ||3.29||

プラクルティの変化によって惑わされた人は、グナの変化と行いに束縛されています

自分自身を知る人は、知らない人達、識別を持たない人達を妨げませんように[29]

-

プラクルティの変化[プラクルティ・グナ]によって幻惑された人は、体・考え・感覚器官の集まり[カーリヤ・カラナ・サンガータ]を自分自身とします。

これは根本的な混乱があること、無知があることを意味します。

その人は、自分自身を行い手とし、体・考え・感覚器官[グナ]と、行い[カルマ]に愛着を持ち、束縛されます[サッジャンテー]。

体・考え・感覚器官を自分自身とするなら、限界があり、「私は、体・考え・感覚器官も同然です」と思うことが束縛で、「結果を出す為に、それをします」という束縛として現れます。

成功と失敗を体験し、行いの結果に束縛される人、またシュラッダー(前半のヴェーダのヴィジョン)を持つ人は、プンニャとパーパが、人生を支配する様になります。

目に見える結果[ドリシュタ]と、目には見えない結果[ア・ドリシュタ]に束縛され、混乱します。

消化不良の時は、好きな食べ物さえ食べたくないし、何もしたくありません。

その様な「沈滞した鈍な性質」の人が、グナとカルマに束縛された人、つまりヴィヴェーカを持たない人[マンダ]です。

この詩のクリッツナヴィトは、アートマーとアナートマーに関して、完全な[クリッツナ]知識がある人、賢者で、ア・クリッツナヴィトは、それ以外の人です。

ア・クリッツナヴィトは、行い手ではない自分自身を知らないので、問題を持っています。

ア・クリッツナヴィトは、 体・考え・感覚[アナートマー]が、行いをする事を知ってますが、アートマーを知りません。

何らかの知識があったとしても、完全には知らない人が、ア・クリッツナヴィトです。

自分をカルターやボークターなどと思わない熟睡中、すなわち完全な無知は祝福ですが、中途半端に知識があるなら、問題があるのです。

沈滞した鈍な性質の人が、マンダ・プラジニャーで、アートマーとアナートマーの識別が無い人は、この詩でア・クリッツナヴィトと呼ばれます。

これらの人は「カルマがモークシャを生み出さない」と、言われること事で、妨げるべきではありません。

「カルマは全て束縛。なぜカルマをするのか? なぜ祈るのか? なぜお寺に行くのか? なぜジャパや瞑想をするのか? ニャーナだけが、あモークシャを与える。」

「お金のために働くことは役に立たない。」

などと言われるべきではないのです。

その人を働かせなければ、ただ怠慢になります。

人は食べ物や住む場所が必要ですから、その人は、お金を稼がないようにと言った人の所にやって来ますから、お金を稼がないように、と言いませんように。

あなたは、ダルマに従いお金を稼ぐことや、何らかのアイデアを与える事が出来ます。

お金は資源であり、ラクシュミーなのですから、お金を稼ぐことは悪いことではありません。しかし悪用されるべきではありません。

一方、お金そのものににゴールは無いと見抜き、ヴィヴェーカを持つ人には、カルマ・ヨーガかサンニャーサについてあなたは話す事ができます。

全てはその人の資質次第です。

クリシュナが話すポイントは、不必要に邪魔されるべきではないという事です。

ムムクシュでも、ヴィヴェーカがあっても、ラーガ・ヴェーシャがあるなら、サンニャーサは上手くいきませんから、サンニャーサを得るようにと言われるべきではありません。

ただ、悪用されます。

クリシュナがアルジュナに言ったように、その様な人はカルマ・ヨーギーとして行いをする様言われるべきです。